書く実験の記録

#826 これからって何の時代なのか

これからってAIの時代じゃないですかって言われることがある。それは誰か一人とかそういうことではなくて、いろんな人に言われることがあったり、いろんな人が言ってるのを聞いたりする。それを聞いた時、いつも微妙な気持ちになる。

それは微妙な気持ちというのはまさに微妙な気持ちであって、否定でも肯定でもない。というか、もっと言えば、半分は肯定で、半分はわからないという気持ちかもしれない。

つまり、否定と肯定、どちらもしないわけではなくて、半分ぐらいは肯定する。うん、確かにその通りだ。そうだね、その通りだよ。そんな気が僕もするよと思う。しかし、もう半分は、本当にそうなんだろうかと思う。いや、これはなかなか言葉にするのは難しいんだけれども、この今言ったような、本当にそうなんだろうかという疑問を提起しているということすらも、やや当てはまらないように思う。これは少し違う。

では何なのか。何なんだろうか。本当にそうなんだろうかというよりは、もっと言えば、その問題提起自体に疑問があるのかもしれない。

例えば、これからはAIの時代であるというが、これからというか、すでにそうなのではないか、であったりとか、そもそもAIの時代とは何なのか、とか。AIというものがもし、非常に発達したとして、それはAIの時代なのかということであるとか、なんだかよくわからない。でもこれはまさによくわからないということを、よくわからないという気持ちのままで、よくわからない文章で書いてしまっているわけだ。なんだかとってもよくわからない。

しかし、いずれにしても、私がその時に思うのは、それは今、たくさんの言葉であちこちで語られているような哲学というような言葉、つまり、AIの時代により人間が哲学を求められるのだということと似ているかもしれないし、少し違うかもしれないし、もっと言えば、そんなに大したこととか、すごく大切なことを言おうとしているわけでもない。ただ単純に、人が生きるのが難しくなっていると言いたくなるけれども、しかしそれも本当にそうなんだろうか。ただ生きるということ。

人が人として、いや、人が生き物としてただ生きるということは、簡単になっているのかもしれない。しかし、人が人として生きることが難しくなっているのかもしれない。だけど、その人が人として生きるとは何なのか。人が人を楽しめていると、人が考えている部分。人と動物が違うと言う人もいるし、そう思っていない人もいるけれども、仮に、人というものが他の動物と違う部分があるとして、人間というもの、ま、人という生物の種類というよりは、人間性みたいな言葉で表現するような、その人間たり得るもの、人間というものを定義するものというもの自体が、何なんだったっけ、なんだったんだろうと考えなくてはいけないというか、考えていると辛くなるから考えなくてはいけないのかもしれないし、考えない方がいいのかもしれない。すべての可能性は開かれているし、また同時に閉ざされている、そんな気持ちになる。

なんだろうな、いろんな思い出話をしようと思ったけれども、やめてしまった。

自分がプログラミングというものをし始めた頃、それは楽しかったし、他の自分が苦手なことに比べると、自分はそれは得意だった。

しかし、もちろん、よりそれが得意な人に比べれば全く得意ではなかった。しかし、自分の中では多少は得意だったし、多くのそれが得意じゃない人よりは多少得意だった。何を言ってるかわかんないような気持ちになるけれども、しかしこれは真実だ。そして自分はそれを仕事に選んだ。

これは消去法的なところもあったし、本当に自分はそれを唯一絶対最もやりたいものとして選んだのかどうかというと、果たしてそこまでのものがあったかわからない。しかし、明確な目標設定というものが、人生に良い影響を与えるかどうかというと、そうではないという話もあるし、少なくとも私はその行為が嫌いではなかった。そう、嫌いではなかったのだ。好きだったかわからないけれども、いや、どちらかと言えば好きだったんだとは思うけれども、より嫌いなことに比べれば全く嫌いではなかったし、楽しかった。

できればそれをずっと続けたかったけれども、まあそうもいかない。そうもいかなくなってきているし、そもそも別にAIは関係なくても、そうもいかなくなっていた。それは、自身の能力とかキャリアみたいな部分だけではなくて、人間の興味関心であるとか、そもそも、なんだろうな、何かをやろうとした時に、足りない部分がそこではない場合という時に、どのように振る舞うのかということでもあるような気がする。

2026-03-03

#825 言葉を使うということの慎み

最近、私が見ているSNSの世界では、1つの話題として、もちろんたくさんある話題の1つとして、たくさん流行っている話題の1つとして、ある話題が盛り上がっている。

そして、この問題を説明すること自体がまず難しいのだけれども、それは説明するには言葉を使わなくてはいけないからで、その言葉を使う時点で言葉の定義に依存してくるわけで、それが非常に難しいことなんだけれども、まあ誤解を恐れずに言うと、というか100%誤解されない、ミスリードされないというのが難しいということ、一定程度のミスリードの余地があるということを理解しつつ説明すると、非常に大雑把に説明すると、というように非常に前置きしつつ説明すると、いわゆるメディアアート的なもの、テクノロジーアート的なもの、いやもう少し何だろうな、えっと、そうだな、東京であったあるイベントのことが話題になっていて、いやもうそのイベント自体というよりは、東京であったあるイベント及びそこからその話題が発生したというか、その周辺の、それをどう定義付けるのか、そういったことが話題になっている。

そのイベントに関連して語られている他のイベントであるとか、他の催し物であるとか、催し物とはイベントなのかもしれないけれども、そういったものをどう作るのかという用語の問題について、揉めているというか盛り上がっている、いろんな意見をみんなが持っているということになるだろうか。非常に曖昧かつ、いろいろなものを回避した説明になっているが、まあ言葉の難しさだ。

つまり、これは具体として言及するというよりは、言葉の難しさについての話なのかもしれない。その言葉というのは、正直言って私自身もすごく何か説明ができるわけではないから、自分としては説明ができるわけではないので、それをあまり使わない、積極的に自分自身の言葉としては使わないというようにしている。今、自分で言ってみて思ったが、自分自身の言葉として使わないというのはポイントなのかもしれない。

これはどういうことかというと、その言葉を使わないということではないわけだ。例えば、Aさんという人がBというものをやっています、もしくはAさんはBですと言うと、ここにはBというものがAさんがやっているもの、もしくはAさんそのものを示しているということを私が考えているのか、別の人が考えているのか、つまりAさんがそう言っているのかどうか、よくわからない。私の価値基準、私の価値判断が入っているような可能性を含んでしまう。

しかし、AさんがBという何かを標榜しているであるとか、AさんがBと書いているであるとか、AさんがBと名乗っているであるとかということであれば、そこには私の価値判断は入らない。ここは、そんなことどうだっていいじゃんみたいな細かい話でもあるし、しかしそれが重要になることもあるし、揉め事の原因になる時もあるし、そこを明確にしておくと揉めないという時もあるし、非常に基本的なところとして、自分の意見なのかそうではないのかということを明確にするということでしかないんだけどね。

もう一つは当事者性の問題があるんだけれどもそれはまた別の機会に書こう。

2026-02-18

#824 炎上を恐れる

基本的に、私はひどく炎上というものを恐れている。このことについて深く考えてみたことは、あるようでないような内容であるような感じはするけれども、ないわけではないとは思うが、自分の中では少なくとも深く考えられているという自覚はない。つまり、まだ深く考えられていないんだろう。

そうだな、1つはまず、じゃあ炎上というものを恐れているというのはそもそもどういうことなのか。それはつまり、そもそも私は炎上というものをどう捉えているのか、炎上というものをどう定義しているのか、何を炎上だと思っているのかということもあるし、それが明らかになった上で、じゃあその炎上というものをなぜ恐れているのか、その今定義した炎上というものをなぜ恐れているのかということ。それは恐れなくてはいけないものなのか、私が本当に恐れているのは何なのかということもあるだろう。

そして次に、その恐れているから恐れているということは、まあその考えたとして、ではどのようにそれを避けるようにしているのかということ、その方法の妥当性みたいなものもあるだろう。つまり、これは私はなぜ炎上を恐れているのかというか、私は炎上を恐れているということを前提にして、そもそも何を恐れているのかというその対象の定義を明確にするということ。そしてそれを恐れるとはどういうことなのかというその行為の定義を明確にするということ。最後に、その行為というか、行為だね、手段としての行為の妥当性を問うというところかなと思う。

まず炎上とは何なのかについて考えてみる。これは辞書的な定義を語っているわけではない。だからここに正しいか間違っているということはないし、というこの但し書きを入れている時点で、これは私のすでに炎上対策というか、ちょっと難しいし、これは先ほどの定義の話にもなってくるんだけども、結局それはその結果として炎上するだけだから、それともう少し遡るというか掘り返してみると、それは批判と、批判だと思う。

つまり、批判されていることを恐れているんだ。批判されるということを極端に、もしくは必要以上に恐れている。しかし、今言ったような極端にであるとか、その必要以上にであるとか、そういったものは結局物事を曖昧にするためのそのごまかしの言葉、少なくとも何だろうな、これもまたごまかしの言葉だけれども、それらの言葉を使うような人間が全て何かをごまかしているというつもりはないけれども、少なくとも今私が行った使い方、私自身においては、これはやはりそのごまかしの言葉ではあるとは思う。そしてそのごまかしの言葉を使った結果、じゃあ必要以上にというものであるとか、その過剰にであるとか、どういうものなんだっていうことの新しい問題が発生してしまうわけだね。

ということを入力してるうちに、時間があと10秒しかないし、あとそもそもなぜかすごく今突然ものすごく眠くなってしまった。むしろ一瞬寝ていたかもしれない。

2026-02-17

#823 遠くはっきりとした記憶

遠い記憶と近い記憶について考えてみたいと思う。具体的に何なのかと、例えば最近、子供の頃のことを思い出した。子供の頃の嵐のことを思い出した。どんな場面だったのかという細かいところはさておき、それは昔のこととして、その昔のことであるということとして鮮明に思い出す。鮮明に何度も何度も思い出す昔の記憶。

そしてそれを鮮明であるが、しかし、まだ昔のことであるということもまた、昔のことであるがゆえにきちんと覚えている。

例えば最近やったこと、最近あったことだけれども、最近あったこととしては覚えている。もしくは、最近あったこととして覚えてすらいないことはもちろんたくさんある。すべてのことを覚えているわけではない。そして逆に言うと、最近あったことだとしても、最近あったということ自体を覚えていなければ、それは当然最近あったこととして覚えていないことになるというか、むしろ記憶自体がないわけだから、自分の中でそれがあったかどうかはもはやわからなくて、もはやなかったと言っても過言ではないこと。

まあ、その完全に忘れてしまっているということはさておき、最近であったとしても、曖昧には覚えていることがあるとしよう。その甘い曖昧だが覚えていること。言ってみたら曖昧なことではあるので、最近あったことだけれども、ぼんやりとしか覚えていないわけなんだ。

しかし、昔あったことで、昔のことをはっきり覚えた。はっきり覚えていることというのは、はっきり覚えているからこそ、それが昔にあったことだということはすごく覚えている。

しかし、最近もしくはそれほど昔のことではないものだとしても、例えば数年前あったことだとしても、最近あったことだとしても、最近というか、数年前にあったくらいのことだとしても、曖昧に覚えていることっていうのは正直言って、それが例えば2年前なのか3年前なのかということは覚えていなかったりするし、2年前なのか5年前なのか覚えていなかったりもするし、下手したら5年前なのか10年前なのかわからなかったりするわけだ。

曖昧であるからこそ覚えていないというか、はっきり覚えていることこそ、それがどのくらい昔にあったことなのかを示しているということもまたはっきり覚えている。そして曖昧に覚えていることは、むしろ曖昧だからこそ、それが近かったのか遠かったのかすらわからないというか、これは変な感じだなと思っている。

2026-02-16

#822 運動が苦手

自分は子供の頃から運動が得意な方ではなかったし、小学校などの通知表でも体育の成績だけが他の成績より少し悪いという傾向があって、自分は運動が苦手なんだなと思っていた。まあ少なくともそういう風に思い込んでいたし、そして思い込むということが現実に反映されるというか、これは別にスピリチュアルな話ではなくて、単純にそこにかける思いであるとか情熱であるとか意欲であるとか、単純に努力であるとか、そういったものがやっぱり他の項目より少なくなってしまうというのは必然的にそうなっているものだとは思う。だから少なくとも結果的に僕は運動が苦手だった。

まあそうは言っても、できるだけ命を落としたりすることはないようにせめてということで、水泳などを親が習わせてくれたことがあって、それは今でもとても感謝している。今では泳ぐ機会というものは、正直言ってそんなにあるわけではない、ほとんどあるわけではないんだけれども、それでもやっぱりいざとなれば泳げるということは何かの自信というか、安全にはなっている自信というか安心というかね。泳げると言っても、例えば今の運動不足の体力では昔それができていた時のようにバタフライなんかは正直できないだろうし、何mも潜れるのか、それは正直言って分からないけれども、少なくともいきなり溺れてしまうというか、泳ぎ方が分からないで困ってしまうということはおそらくないし、単純に水というものに慣れているということ、むしろ水の中のあの気持ち良い感覚というものは覚えているし、体の動かし方、水をかき分ける体の動かし方みたいなものは感覚的に今でも思い出すことができるし、それはとても良かった。

そういったものはあったとして、話は戻すけれども、別に水泳の話をしたいわけではないんだけれども、水泳の話をして時間が終わってしまった。

2026-02-14

#821 個人という中間

一人で黙々と何かをやって得られるもの、そこでしか得られないというものもやはりあるし、そしてそれでしか作れないものというものもあるし、それでしか到達できない場所というのもある。しかし時間は有限で、残念ながら人生も有限なので、それでは到達できない場所というのもやはりあるだろう。どれだけすごい人だとしても、どれだけすごい個人だとしても、時間をかければそれをできる能力が本来備わっていたとしても、巨大なロケットを1から作るということは、1人の人間にはやはり難しい。1人の人間の人生というものでそれをやるのは難しい。

そうは言っても、より大きなものを作るということ、もしくはより大きなものがより良いものであるとは限らないし、小さいものが良いものであるとも限らない。大きいものが良いものであるとも限らない。それに、何だろうな、まあ人生万事塞翁が馬みたいな、あの適当なことを言うけれども、結局のところ継続できないところまで継続することができるということももちろんあると思っている。

しかし一方で、組織の寿命というものはなかなか意外に短いもので、多くの会社というものは、多くの組織というものは、多くのチームというものは、人一人の人生全体でなく、それも人生全体でないとしても、人一人のその、そうだな、職業人生よりも、残念ながら多くの場合短いものだ。本当は長い方がいいんだけれどもね、長く続けばいいんだけれども。

そして、組織ができるということは、人一人ができるスケールを超えるということであって、そのスケールというものは、たくさんの人数で大きなことをなすというその大きさのスケールもあるし、また時間的なスケールというものもあると思っていて、1人の人の人生の時間を超えて、もしくは1人の人間の興味関心の限界の時間を超えて、長いこと何か一つのことをなすことができるというふうな時間的なスケールによって、個人を超えることができるということもあるだろう。

しかし、それができるということが、それが常にできるということを意味するわけではないのだなと本当に思うわけで、むしろ多くの場合そんなことはできなくて、1人の人間がどうしようもないこだわりを持って取り組むということよりも、組織の方が移り気だったりするし、だから1人の人間よりも一つのことに集中できなかったりはするし、もしくは、そうだな、1人の人間が情熱を持って取り組むことよりも、それすらも達成できない、実行できないということがやはり起きたりするし、もしくはその、単純に寿命というものに関しても、理想的には1人の人間の人生を超えて何かをなすことができる、長期間何かをなすことができる、取り組むことができるということが組織の成し得ることの一つであるにもかかわらず、しかし多くの場合、非常にある種の奇跡のようなもの、もしくはその奇跡というものは人為的に起こすことができるというか、そこには人の介在があって、完全な偶然ではなくて、何かが誰かがなしているもの、それは一人だけではなくて、その集合体である組織の構成員というものが主体的に意図的に起こす、まあ意図的に起こすと言ってもいいと思っていて、必ず起こせるということでもないし、しかし意図を持たないで勝手に起きるということもあまりないと思っているので、その両方なわけだけれども、とにかくまあそういうふうに、結局のところその中間にあるのが個人なのだなと思っている。個人を選ぶというものは、結局のところ中間の選択肢なのだと。

2026-02-13

#820 仕事と友人

仕事上の人間関係というものは、やっぱりどんどん入れ替わっていくものだなと感じる。これはもちろん私個人の資質の問題もあるだろうし、それが問題かどうかと言うと、別に問題でもないとは思うんだけれども、とにかく私個人の資質による部分もあるだろうし、もちろんそうではない部分もあるだろう。

しかし、仕事というものはやっぱり何か目的を持って達成するものだ。良い目的もあれば悪い目的もあるだろうし、大きな目的もあれば小さな目的もある。別に目的なんかなくて、生活のためにしているだけの仕事というものもあるだろうし、それはそれで、しかし生活のためにお金が入る、そのためにお金を得ている以上は、何かをなしているわけだ。バリバリ仕事をしている人もいれば、会社の中でのんびりしている人もいれば、いろんな人がいるんだとは思うけれども、とにかく様々なことを言い出したらきりがない。

大きく言うと、やっぱり仕事上の人間関係というものは入れ替わっていくものだなと感じる。それと同時に、仕事上の人間関係ではなくなった瞬間に友達になることができて、そこからむしろ仲良くなる人というものもいる。これはもちろん自分の場合の話であって、そもそも仕事をしている間にも仲良くなれる人ができる人もいるだろうし、そうではない人もいるだろう。

それはやっぱり仕事をしている以上、どこかで理解がぶつかったり、利害がぶつかったり、やり方についての意見が対立したりして、とにかくお互い目的は一致しているんだけれども、何かがぶつかる瞬間というものは当然ある。しかし、それでも飲み込む瞬間はもちろんあるので、そういう時にどのくらい受け入れられるのか、何かを許せるのか、どのくらいうまくやれるのかということは、それ以前の人間関係に依存している、ということももちろん言える。

しかし、これではあまりにも前置きが多くて、よくわからない話をしているなと自分でも思うので、一旦すっきりさせてみよう。仕事上の人間関係は入れ替わっていく。友人関係は入れ替わらないとは全然言えない。友人関係も入れ替わっていくし、仕事上の人間関係も入れ替わっていく。しかし、その入れ替わり方というものは、何か違うように思う。

仕事上の人間関係というものは、やっぱり何かをなそうというものであって、逆に言えば、目的が一致しているうち、協力するメリットがあるうちは、一緒にやることができる仲間としてやることができるだろう。しかし、そこが一致しなくなったり、一緒にやるメリットがなくなってしまったら、やっぱり仕事としては一緒にやることはできないだろう。

友人関係というものは、今想像を巡らせても、別に何か一緒に仕事をしているわけでもない。だけれども、大人になってしばらく経つと、特に目的もなく、利害関係もなく、というと少し問題で、それは少し間違いだ。害があったら、さすがにもう付き合いは続かないわけだからだ。

だから、「利害がない」というのは間違っている。「利益もないし害もない」ということか。いや、違うな。「害がない」ということか。利害関係がないということは、利益もなければ害もない、ということになる。しかし、それだけでは友人として成立はしないし、続けることはできない。では、友人とは何なんだろうか。なぜ友人は、友人であり得るんだろうか。

2026-02-10

#819 反芻

何かの時に思い出して、例えば「昔こういう文章を書いたなあ」というふうに思い出し、それを提示する。例えば、誰かと会話しているときに「そういえば、そういうことを昔考えていて、ちょうどこういう文章を書いたんですよね」というように会話の中で出すことがある。

けれども、それはやっぱり、そもそもそのこと自体を覚えていなくてはいけないし、検索できなくてはいけない。自分でそのタイトルや内容を覚えている、あるいは何かしら一覧を見て探せる、といったことが必要になる。つまり、覚えていなくてはいけないわけだけれども、いつも思い出すのは、せいぜいノートに書いていた記事や文章のほうだ。

残念ながら、ここに雑に書いている文章のことは、正直言ってあまり思い出すことはない。きっと反芻することが大事で、ノートに書いていた文章のようなものは、ある程度しっかり書いていたものなので、そもそもそれを書き終わるまでに、何度も何度も読み返して修正している。

一方で、今ここで書いている文章というものは、正直言って、書いた瞬間に流れ出るまま定着させているだけで、それを二度と読み返すことはない、というのは言い過ぎだけれども、何かない限り、主には流れていくだけだ。思い出すこともないし、自分自身すら思い出すこともない文章に意味はあるのかと言うと、もちろんあるのだけれども、しかし意味は違うとは思う。

これはこれでやりつつも、やはり反芻するようなことは必要なんじゃないかなと思う。最近こういうことは話題だけれど、それに関連して「この頃にこういう予測を立てていたな」ということを、わりと整理された状態で、きちんと話せたりする。そういう意味でも、文章として書いて残しておくというのは良いことだ。

もちろん、過去の文章というものは、その後に予測が間違っていたり、考え方がアップデートされたりといったことはあるので、すべてが正しいわけではない。そもそも正しさだけの問題ではなく、正しいか正しくないかという軸がない領域だとしても、考えが変わることはある。

しかし、それはスナップショットだと思っているので、その時そうであったということ自体は別に問題はない。少なくとも個人的なことであるし、そこの歴史を修正する必要まではない。むしろ、その変化にこそ面白さがあると、自分自身は思っている。

このようなことは続けるのだけれども、やっぱり反芻というものを含める仕組みは必要なんじゃないかな。そして、そこは足りていないんじゃないかな。

2026-02-09

#818 成功を避けてしまう心のサイズ

さっきまで一度、別の文章を入力していたんだけれども、めんどくさくなってしまってやめてしまった。何がめんどくさいのかと言うと、特定のキーワードを入れると音声入力がエンターキーとして動作してしまって、それがエディターとの入力の相性が良くなかったということで、そのテーマをそれ以上入力していくというのはなかなかめんどくさい、億劫な気持ちになったので、まあ止めてみたという感じだ。

ところで、人生に大きな転機というものがある人もいるし、あまりない人もいるし、そしてその人生の大きな転機みたいなものが複数まとめて来ている人もいる。それはすべてポジティブなものであるので、全く素晴らしいことではあるんだけれども、それはその人にとってもちろん良いことで、ではそれを転機として考えた時に、なぜ何かがそのように来ているのかと言うと、やはり転機が訪れたというよりは、人生の転機が自然に訪れたというよりは、そもそも訪れるような前の行動というか、流れがあるということを感じる。つまり、転機というものは不意に訪れるものではないのだ。

もしくは、訪れると思ってもいない幸運みたいなもの、思ってもいない人生の転換点であるとか、何かのきっかけ、もしくは何か見も見なかったような展開というものを手に入れる人もたくさんいるだろうし、そういったものに対して開かれているということの大切さというものももちろんある。そして、そういうものを手に入れる人、そういうものに恵まれている人というものも確率的にはいて、ここで言うポイントは、それが別に運というものが本当にあるのかどうなのか、本当の意味での偶然というものがあるのかどうなのか、そう見えるものはどのように作られているのかということを含んでいる、ということなんだけれども、とにかくそのようなものを得ることが多い人もいれば、得ることが少ない人もいる。

しかし、いずれにしても、その友人を見ていると、その人生の転機みたいなもの、大きなきっかけみたいなものが今連続的に来ていて、いずれもやはり自分自身の行動によってそこにたどり着いているというか、別にたどり着くという意図を持っていないものもあるし、持っているものもあるけれども、だから本当の意味で偶然というか、本当の意味での偶然性を含んでいるものもある。しかし、もちろんその偶然性を含んでいるからといって、それが偶然であるということではない。

100%本当に偶然なものも世の中にはもちろんあるけれども、それはそれで、もちろんすごく不安になる。何かによって手に入れたわけではないというか、そこには因果関係がない。因果関係がないというものは不安になる。もちろん、いきなり偶然にも100億円でも1000億円でも手に入れることができたら、そんな大きなお金は少なくとも今の自分には想像もできない金額だし、もちろんそれを手にしている人が世の中にたくさんいるということも事実なんだけれども、遠い金額である。

それはその人によって、どのくらいの金額が実感のある金額で、どのくらいの金額が実感のない、遠い金額なのかというのはもちろん違う。自分が小学生の頃は、1万円というものはとてもすごい大きな金額だったし、でも今はさすがに1万円というものは、小学生の頃よりはある程度気軽に使える、使うという意思決定ができる金額にはなった。しかし、じゃあ1億円使ってと言われると、残念ながらそれは大変なことなわけで、人もいて、もちろんそれが簡単な人もいる。

ここで言いたいのは、つまり、個々人によってそのキャパシティは違うんだけれども、しかし誰にとってもキャパシティから外れた金額はもちろんあって、というか、ここで言うのはお金の話じゃなくて、とにかく自分のキャパシティから遠いような大きな何かというものは、急に得てしまった場合、やはりそこには幸運であるとしても、何かの恐怖みたいなものがつきまとってしまう。

そして、そのこと自体を受け入れることに対して、思わぬ拒否反応を示してしまう時というものもやっぱりあると思っていて、それはある種の成功を回避する欲求の一つだとは思うんだけれども、そういったものに対して開かれている、受け入れることができる、つまり、いきなり「あなたはこの仕事に成功したら1億円手に入りますよ」という話があったとして、もちろん非常に危うくて危ないような、いかがわしい仕事は避けるべきだけれども、それが真っ当なチャレンジであれば、それに対してチャレンジすることができるということに対して開かれている、というのは全然あり得る。

それは因果関係が全然明確なのでまだ良くて、もっとその予測がつかないもの、因果関係がなくて断絶された、唐突なものに対して、いかに受け入れることができるように開かれているのかどうか、ということなのかもしれない。いつも以上に、何を書いてるのかよくわからなくなってきた。

2026-02-07

#817 文脈を聞く

私は音声入力をよく使っているけれども、今は試しに新しい音声入力ソフトを使って入力してみている。どのような違いがあるんだろうか。今までいくつかの音声入力ソフトを使ってきて、そして今使っているものも、たぶん一回、昔出てすぐに試したことがあった。しかしその時は、当時使っていたものから乗り換える有意性のようなものを感じられなかったので、変えなかったような気がする。あまり覚えていないけれども、インストールした形跡はあったので、多分そうだったんだろう。

しかし最近、改めて友人と話していたときに、友人が二人ほど、今私が試している新しいソフトの方を使っていた。どうやらそちらにも何かしら有意性があるのかなと思って、もう一度試している、ということになる。

考えてみたところ、やっぱりそれぞれ、その時その時の用途や、その人のスタイルによって違うのだと思う。同じ人でも場所や文脈によって違う。つまり、そのコンテクストをいかに理解してくれるのかということが大事なんだと思う。これは昔習った話だけれども、例えば会社員のランチを考えたとしても、その人だけを切り取って考えてもわからない。一人で食べる時、お客さんと食べる時、友人と食べる時、同僚と食べる時では、それぞれ行動は違うよね、という話を聞いて、全くその通りだなと思ったことがある。

そして、まさに我々がAIに求めているのは、そういった曖昧さを曖昧なまま、何とかしてくれる挙動なんだと思う。今、私はこれを書きながら、できれば、どのような文脈でこれを入力しているのかということが、もう少し明確になり、それによって挙動が変わればいいなと思っている。しかし、生の声や生の感覚を残したい場合もあれば、非常にフォーマルなe-mailのように、かなり編集されてもよいものもある。もちろん自然な日本語であってほしいわけだけれども、そういったものとは、やはり条件や役どころが違うのだと思う。

2026-02-05