書く実験の記録

#806 音声メモ

最近は、何かメモをする方法を変えることができないかなと思って、iPhoneのアクションボタンを録音に割り当てている。長押しすると録音が開始するようになっている。もっといい使い方があるかもしれないけど、一旦そうなっている。

目的としては、やっぱり文字にしたいというのがあるから、録音して、それを文字起こしして、それを何かの、例えばNotionであるとか、メモ帳であるとか、何かのアプリケーションのテキストを取得するようなアプリケーションに自動的に文字にするということができたらいいと思っている。けれども、今のところそれはできていない。

と思ったのは、やはりメモできていないことがたくさんあるからだ。でも、できていないことというのは、例えば何かを思いついた、やらなきゃいけないことを思いついたり、良いアイデアを、良いかどうかは分からないけど、とにかく何かのアイデアを思いついたりとかした時に、それをいつまでも頭の中で覚えているっていうのはなかなか難しい。ついつい他のことを考えると忘れてしまう。

これは誰でも経験があると思うけれども、例えば電話番号を覚えておこうと思うと、電話番号を何度も頭の中で唱えていると思う。そんなことをしなくても覚えていられる人もいるかもしれないけれども、自分自身は少なくともそういうふうに復唱して、それを維持する、短期的にはそれを維持するというものがあるし、経験として語られているもの、他の人の経験を読んだり聞いたりしたところによると、それは自分だけの傾向ではないように思う。もちろん他人の頭の中はわからないけれどもね。

しかし、とにかく、まあそういったふうに、何かの折りに思いついたこと、思い出したこと、気づいたこと、そういったことを取りこぼすことがやっぱりすごく多くて、まあできるだけメモしようとしているということではあるんだけれども、ついつい、やはりスマホでメモを取るとすると、なんだかんだでiPhoneの場合、一番早いのは純正のメモアプリである。Macとも同期するし、悪くはない。とにかく一番メモ帳として使っている、一番雑多なメモ帳として使っているように思う。

あとは、しかし問題があって、やっぱりそれでもスピード感とか、「取りこぼした」「今無理だな」「間に合わないな」みたいなこともあって、そこをもうちょっと向上したいのが、アクションボタンへの録音の割り当てである。

そしてもう1つの課題としては、これもよく言われることではあるし、そういう人も多いような気がするんだけれども、シャワーに入っている時とか、そういった時に何かを思いつく、思い出すことが多くて、残念ながらその時のメモの手段がない。iPhone自体は防水だから、お風呂場に持ち込んでいてももちろんいいんだけれども。

2026-01-15

#805 バランス

バランスを取るということを考える時、例えば一つのことで両方をバランスよく成し遂げるのか、そもそも二つのことに切り分けてやるのか、どちらの方法を取るのかという問題があるだろう。色々な例があると思うが、今イージーに思いつくもので言えば、いわゆる仕事と趣味の話などが一つそれに該当するだろう。仕事は仕事、趣味は趣味と割り切るのか、仕事を趣味にする、もしくは趣味を仕事にするなど、こちらも一つのことでバランスよく達成できるような形にする、という考え方がある。

しかし、バランスというのは一方で、どちらも達成できない、もしくはどちらもそこそこ、という可能性もあって、そこそこ楽しいけれどすごく楽しいわけではないし、そこそこ稼げるけれどすごく稼げるわけでもない、という仕事になる可能性もある。というか、多くの場合はそんなところだろう。

また、楽しいかどうかという話で言うと、やっているうちに楽しくなることはよくあるし、楽しさは後から見つかることもある。何かしらの楽しさみたいなものは発見できるものだ。もちろん、そうは言い切れなくて、本当に良くない環境というものはあるし、その中から無理やり楽しさを見つける必要などはないのだけれども、そういったものでなければ、楽しさは後から見つけることができるというのが、なんとなくの実感だ。

しかし、もちろんそれにも度合いや程度問題みたいなものがあって、やはりそこには性格的な適性というか、能力の適性というか、そういうものがある。例えば、僕にとっては、少なくとも今の僕にとっては、Aという行為は苦痛ではない。しかし、別の人間にとってはそれが逆である、ということは非常によくあることだ。

2026-01-14

#804 思い出したり流れたり

時々、遠い昔の失敗を思い出すことがある。出来事そのものを思い出すというよりは、その失敗した瞬間の風景のようなものを思い出すことがある。まあ、これは別に大したことではなくて、重大なPTSDであるみたいなことを言うつもりはなく、単純にふと頭をよぎる瞬間があって、それは何でだろうと思っているぐらいの軽い話である。

例えば、よく思い出すシーンとして、小学校時代のある失敗の場面がある。それはそもそも何だろうな、別にそれほど大きな失敗でもないわけである。というか、むしろ失敗ですらないかもしれない。ただ、自分としてはとても何か恥をかいた、恥ずかしい思いをした経験なのかもしれないし、まあ何かこう、ショックだったのかもしれない。そして、自分がその時に見た景色であるとか、その視界に映っていたものであるとか、その時の感覚や感情、言葉みたいなものも覚えてはいるけれども、しかし、そんなものは時間が経つとどんどん変わっていく、変化していくものなので、記憶というものは全然当てにならないと個人的には信じている。

だから、きっと今自分が覚えているその感覚というものも、実際には全く違ったものだったんだろうと思っている。しかし、いずれにしても、それが全く違ったものに変わってしまっていたとしても、これも証拠はないから確かではないけれども、さすがにその出来事があったこと自体は多分事実である。まあ、些細な出来事で、本当に些細な出来事であるが、逆にそれだからこそ、今でもその出来事が、当時の自分にとっては大きな出来事だったのだろうと思う。それだけ強く記憶に、もっと言えば脳に、それだけ強く刻み込まれているのだなと思うことがある。

そういったように、時々思い出す出来事というのは、大きなものもあれば小さなものもある。むしろ、小さな出来事であっても、感情を大きく揺さぶられたものこそ、なぜそのように印象に残っているのかということが気になったりする。そして、気になるからこそ、より印象に残っているということもあるのかもしれない。

今は、ゆっくりと小さい頃のことを思い出したり、誰かとそれを話したりする時間や機会というものは、正直言ってない。そもそも、誰かと話すようなことでもないというか、それが家族の中で起きたことであれば、親や兄弟と話すかもしれないし、学校のことであれば、例えば当時の同級生と話すことがあるかもしれないけれども、話すほどでもないというか、もはやそのような出来事があったことすら、自分以外は誰も覚えていないだろうということもたくさんある。

だから、繰り返しになるけれども、自分としては、むしろその失敗がどうこうということでもなく、それが本当にあったのかどうか、あるいは今の記憶がどの程度事実に基づいているのかということでもなく、なぜそのような些細な出来事を今でも強く覚えていて、それを時々思い出してしまうのかということの方に興味があったりする。

話は変わるけれども、最近何度も触れているように、とにかく何かをせっかく思いついても、だいたいのことは忘れてしまう。何か出来事があったり、何か思うことがあったり、とにかく出来事というものは、自分の周囲だけでも膨大に、常に何かが起きている。それに気づくか気づかないか、もしくは気づいたとしても、それを気にするかどうか、気に留めるほど気にするのかどうか、そういう違いはあるけれども、いずれにしても、自分の周囲では膨大な出来事が発生している。

しかし、それらのほとんどは、実行されることもなければ、実現されることもなく、記憶されることもなく、過ぎ去っていく。確認されることもなく、何も起きなかったかのように、何もなされることもなく、何も気にされることもない。その中には、よく考えたら後で思えば、結構いいアイデアだったなというものもあるし、いいアイデアだったけれども実現できなかった、もっとリソースを割いていれば、あるいは単純に実現できていれば、結構良かったんじゃないかなと思えるものもあったりする。

いろんな段階があるのだけれども、とにかく多くのものが発生して、多くのものが流れていって、多くのものを取りこぼしているような感覚がある。できれば取りこぼさずにいたいと思えるようなこと、それすらもたくさん取りこぼしているような、そんな感じがする。

2026-01-11

#803 継続

この文章をどこに投稿するのか、どこにポストするのか迷って、1つはサブスタックに投稿していて、もう1つは自分で取ったドメインのワードプレスに入れている。

それは非常に簡素なデザインとレイアウトにしている。そういった無骨さ、飾らなさみたいなものに引かれていた時期もある。まあ今もそれは続いているかもしれないですね。例えば、なんでもないテプラの文字みたいな、そういったものに魅力を感じてしまう。感じてしまうと言うとネガティブ、もしくはネガティブだと私が感じているという風な表現になってしまっているけれども、別にそんなことはなくて、全然ポジティブというか、少なくともフラットには感じている。

ところで、少しずつ毎日やっていると、ある時ふと突然、今までずっとわからなかったことがわかるようになることがあって、それはとても嬉しいものだ。それは何か特別な、すごく大きなことではないようなことだとしても、何かがわかる、何かが解決する。そしてそれは何だろうな、自分の積み重ねというか、ある時の気づき、その試行錯誤によって気づくことがあるというのは嬉しい。もちろん、それはそんな苦労せずに初めから理解ができていれば、それはそれで嬉しいんだけれども、何だろうな、少し別の感覚というか、別のもののような気がする。

例えば、すごく些細なものの例として、最近すっきりしたものがあった。私はさっき言ったように、これをサブスタックに投稿してるんだけれども、時々サブスタックの文章のタイトルではなくて、本文の下の、じゃないな、本文の要約みたいなものが一覧に表示されるわけなんだよね。ただ、その要約が表示される時とされない時があって、これは一体どういったことなんだろうと思っていた節があるんだけれども、まあ、もっと早く気づけるということではあるのだが、昨日だか一昨日だかに気づいたことがある。つまり、英語であればスペースで区切られているので、ある文字の分量のところで切られるわけなんだけれども、その単語でね、ちょうど一旦この数のところで切られるわけなんだけれども、まあ、よくある日本語の問題だよね。

それで、文字数がオーバーしてしまった時に、その切りどころがわからなくて、そのまま省略されてしまう。その結果、その要約全体が省略されてしまうという状態になっていることが分かった。だから、それに気づいてから、少し適切なところで改行を入れて、つまりコンピューターがそこで区切ることができるような分量にしてあげる。もしくは、もし溢れているものがまだあれば、それを少し調整して改行を入れてあげるということによって、それを解消することができた。

これは別に、何か僕の人生に大きな影響を与えるものではないし、誰かがすごくハッピーになるわけでもない。非常に些細な、非常に非常に些細なことだけれども、そういったことに気づけた喜びみたいなものはある。これがまさに、継続的な試行錯誤によってもたらされるもので、そういった、まあこれは非常に分かりやすく言いやすく、そして小さく些細な事例ではあるけれども、もっと大きな何か、もっと喜ばしい何かというものにも、その巡り合う部分っていうものはあると思っている。そういった巡り合いをしたくて、私は何かをしているのかもしれない。

何かが生まれるわけではないと思う。継続というものをもてはやす頂点もあるし、風潮というものはあるし、自分自身も別にそれを否定するつもりはない。ただ、継続によってもたらされる効果、期待できる効果というものと、継続によってでは期待できない、もしくは難しい効果、継続によってもたらされることもあるけれども、実はそれは別に継続のおかげではないという効果もある。継続、それを手に入れている人は、一見、継続をしたからそれを手に入れているように見えるけれども、別に実はそのせいではない、その影響ではない、みたいなこともある。そこについては、継続の力点をあまりにも過大評価しすぎないというか、継続自体は良いことなんだけども、継続だけに自分自身が頼り切ってしまうことをしないようにしなくちゃいけない、という気持ちもある。

2026-01-04

#802 まだ体は2025年

癖というものをすんなり変えるのはなかなか難しい。切り替えるのは難しい。例えば、これは癖ではないけれども、いわゆる一般的な癖ではないけれども、今2026年に年が変わって年をまたいで、今1月3日だから2日が3日ぐらい経ったということになるんだけれども、日付を書いたり言ったりする時に、ついついまだ2025年と言ってしまう時がある。書いてしまう時がある。いわゆる一般的な癖ではないけれども、これもまた一つの、1年間やってきた行為による、まあ何て言うか、こう、癖の一つだとは思うし、これが徐々に、少しずつ日が経つにつれて、2026年というものがすっかり、すっきり自分に染みついてくる、染み込んでくるというものだと思う。

しかし、時間というものは考えれば考えるほど面白いものだ。不思議なものだ。この辺はいくつかの本を読んでみたりはしているけれども、これについてまだ語れるような状態ではない。もしかしたら一生、語れるような状態にはならないかもしれない。でも、そうだな、時間の経過というものを人間、というか生物が感じているというのは、実は不思議なものだ。それについて深掘りするのはここではやらないけれども、少なくとも、この2026年になっているにもかかわらず、まだ2025年だとついうっかり発言してしまうというのは、その体にまだ2025年が染み込んでいる、体はまだ2025年だと思っている、とある意味では言ってもいいかもしれない。この状態というものは一体何なんだろうか。

まあ、「一体何なんだろうか」と言いながらも、それは時間という概念とは全く関係がない別のものであるということは分かってはいるんだけれども、なんだか現実の時間の「2026年」という存在、と言うとちょっとおかしいな、何だろうな、存在というとちょっと違うけれども、とにかくこう、共通認識としてある何かの基準として、現在が2026年というものになっているという現実の時間と、ふとした時にまだ自分がついうっかり2025年と口にしてしまうという自分の感覚、その感じているというか、どちらでもない自分自身。だってもちろん、今が2026年であることは十分分かっていて、なぜならばすぐに間違っていることに気づけるからだ。

だけれども、ついうっかり2025年だと口にしてしまう、体がそういうふうにしてしまうというのは、何も考えずに口にする、要は反射的なものだなと感じている。例えば「今は2025年だ」とか「2026年だ」とか、そういった部分を書いたり言ったりするというのは、もちろん何かを考えて話しているんだけれども、そうは言っても、もう少し反射的に出てくる言葉の部類だと思う。だからこそ、体の深い部分、脳の深い部分、思考の深い部分というか、それが体なのか思考なのかという点はさておき、とにかく自分というものの中には、まだ古い時間が流れている、もしくはまだ2025年が続いているのではないかと思う時がある。

そういえば、少し話は変わるけれども、先日読んだ本で気になる言葉があった。それが確か、ここしばらくの間に読んだ本の中で二つぐらいあって、別々の本でそれぞれ一つずつ、何かそういう言葉が気になった。その言葉というものは、すっかり忘れてしまっている。変換がうまくいかないけれども、とにかく忘れてしまっているわけだ。

しかし、こういったものをどのように保管するのか、こういった情報をどういうふうに保存するのかというのは結構悩んでいる。例えば、何らかのアプリであるとか、何らかのツールであるとか、そういったものに書いていくというのは、これはまあ、なんていうか、失われていくんだよね。10年後、20年後に見た時に面白いんだけれども、それが失われてしまうという感覚がある。一方で、検索性という意味では、やっぱりデジタルデータにメリットがあるし、残すということに関して言っても、デジタルデータの方が残りやすい場合もあるだろう。

だけど、ずっと昔に書いたメモ帳みたいなものが出てきたら面白いんだけれども、ずっと昔のハードディスクの中というのは、正直言ってあまり見ない、というか、見ることができない場合もある。もしデータが残っていたとしても、ああいう構造になっているものを掘り返すのはなかなか億劫だ。だから本当は、アナログの形で断線的に残っている、一つのタイムラインとして、一つの線として残っているものと、日々の検索性や利便性、再利用性に基づいて活用しやすいデータ、その両方が残っているのが理想なんだろうなと思っている。

もちろん、それは人間があまり得意とするところではない。毎日、両方を書き出すというのは無駄だし、得意でもない。だからそれは何か機械にやってほしいところではある。じゃあ、デジタルの方を機械化するのか、もしくはアナログの方を機械化するのかと言うと、これもまた難しいところだ。アナログのメモ帳にメモすることで、それがデジタル化される製品もたくさん出ているけれども、いまいち定着していないように思う。結局のところ、キーボードで入力することも多いし、コピー&ペーストして取っておきたいものもあるし、取っておきたい画像もある。

結局のところ、どうやって情報をある人のタイムラインとして取っておくのかというのは、結構悩ましく、難しい問題だ。少なくとも、デジタルで取っておいて、それを印刷するというのは、1年に1回ぐらいやってもいいのかもしれない。しかし、例えば雑誌なんかは、1ページの大きさが決まっていて、その中に入る情報のボリュームも決まっている。そこに収めるという概念がある。それはアナログのメモ帳でも同じで、1ページに収められる情報には限りがある。

一方で、デジタルの情報というものは、物理的に本当に無限なわけではないけれども、人間からすると、もはや無限と言えるような量を扱える。メモアプリの一つのページに書ける文字数も、人間の感覚からすれば無限に近い。それが機械的には上限に達することがあるとしても、人間が真面目にキーボードを打ち込む限り、十分に余裕がある分量だ。

つまり、物理的な紙の1ページには上限があって、それが良い影響を与えている部分もある。一方で、デジタルメモ帳には終わりがほぼなく、書きすぎてしまう。だから、それをどうやってアナログとデジタルを行き来するのかという問題がある。最近思うのは、ある種の物理的限界が定められているというのは、結構重要だということだ。

なぜならば、それは多くの人にとってそうだと思うし、少なくとも自分にとってはそうだけれども、人のキャパシティは人によって違う。あくまで自分がそう思うという話でしかないが、人間というものは物理的な限界がある存在だ。それは認知能力や知的能力全般においても同じで、一時的に何かを覚えておく能力にも限界がある。

その点において、コンピューターの方がはるかに得意だ。最近のAIの発展によって、「覚えておく」能力や、そこから「引き出す」能力までもが、人間を超えつつある。人間には限界があり、コンピューターにももちろん限界はあるけれども、人間の物理的限界をはるかに超える可能性がある、という議論はされているわけだ。

2026-01-03

#801 初夢

2025年は、なんだかんだで年末の最後の日、つまり大晦日にその1年間の100個目の記事を書くことができて、なんとなく自分としては嬉しい気持ちになった。この「切りの良さ」みたいなものにとらわれる感じがどこから来るのかはよくわからないけれど、例えば何周年記念みたいなものであったり、昔インターネットで流行ったカルチャーとしては「あなたはこのサイトに来た何番目の人間です」みたいなものがあったり、あるいは「あなたは100万人目のお客さんです」といったものだったり、とにかく人間はそういう切りのいい数字が好きだ。自分ももちろん例外ではなく、そこに乗れることはなくてご多分に漏れず自分もそうである。でもそれがなぜなのかはよくわからない。

できれば今年も1年かけて100記事ぐらい書けばいいと思っている。つまり1年は365日あるので、そのうち3日から4日に1回書けば良いということになるし、1週間に1回よりは少し多めのペースで、まあそんな感じで書いたり書かなかったりしていけばいいと思う。ただ逆に言うと、書きすぎた場合に100を超えてしまうということの方が気になってしまう、そのことの方が問題だなとも思っている。

「つまり」という言葉で文章をつなげる癖も、ここ3年くらいについてしまったものだなと思っている。非常に無理やりつなげている感じがするけれど、まあいいか。

話題はいくつかあるような気がしていて、1つはいわゆる初夢の話。今日は1月2日の朝なので、昨晩見た夢というのが、いわゆる初夢ということになる。ではどんな夢を見たのかというと、普段あまり夢を見るタイプではない、もしくは見ても覚えているタイプではないので、ほとんど夢を見た記憶はないと言うと少し言い過ぎになるけれど、日常的に頻繁に見るかというと決してそうではない。その中で、なぜか昨晩は夢を見ることができた、もしくは夢を見てしまった。良いことなのか悪いことなのかわからないけれど、とにかく見てしまった。

残念ながら、日本で縁起が良いとされる一富士二鷹三茄子みたいなものではなかったし、むしろ何の夢なのか、何を意味するのかわからない夢だった。夢に必ずしも意味を求めて分析するタイプではないけれど、それでも何の影響なのかわからない、不思議な夢だったなと思っている。

具体的には、非常に端折って言うと、自分はどこかの帰り道で、山の中の国道を走っていた。国道なのか私道なのかはわからないけれど、山の中ではあるものの、車は2車線あって歩道もあり、アスファルトで舗装されている道だった。そこを電動自転車で走っていた。断片的なシーンなので、それぞれがどうつながっていたのかはあまり覚えていない。

走っていると、赤い靴が歩道に置いてあった。それは忘れ物ではなく、「差し上げます」というようなことが書いてあった気がする。ナイキの靴で、クロックスのような一体成型の素材、そして真っ赤な色だった。小さなサイズと大きなサイズの2足、つまり1セットが置いてあったのだけれど、よく見るとそれらは実はバラバラで、左右で同じ大きさではなく、微妙に違っているという、よくわからない状況だった。

それについて、通りかかった人と会話をした。確か30代以上くらいの男性だったと思う。「これ、あれやなんですかね。どうなんですかね」みたいな会話をしていた気がする。

その後、場面はほぼ同じだったと思うけれど、自転車に乗っていた自分は、いつの間にか車に乗っていた、もしくは乗ろうとしていた。その車にまつわる話で、なぜか見知らぬ少年が乗っていた。その少年は暴れたり逃げたりしそうな雰囲気があって、しかも私の車に勝手に乗っていたので、どういうことなんだと思い、とにかく逃げないよう、暴れないように拘束していた気がする。かなり暴れていて、会話にもならなかったような気がする。この辺りは記憶がだいぶ曖昧で、「気がする」という表現の連続になってしまう。

さらに少しシーンが飛び、その少年は逃げてしまっていた。なぜ、どのように逃げたのかは覚えていないけれど、その時にはもういなかった。代わりに車には、きっちりとしたスーツを着た3人の男性が乗っていた。2人は日本人、2人はアメリカ人だと私は認識していたが、全員日本語は流暢だった。私は彼らと会話をしていた。

座席の配置については少し混乱していて、助手席に日本人が座っていて、後部座席の一番左にアメリカ人、そしてもう1人が右側に座っていたような気がする。一方で、運転席にも誰かが座っていたはずなのに、その人物については記憶がなく、夢の中でも触れられていない。会話もしていないし、顔も見ていない。ただ「誰かが運転している」とは思っていた気がする。

3人の男性は、その少年の関係者であることは認めていた。しかし焦って探す様子もなく、私たちに何かを聞いてくるわけでもなかった。むしろ私の方が色々と質問していたのだけれど、はっきり答えてくれず、濁されるような感じだった。その態度から、私は「何か言えない事情があるのかな」と思っていて、少年とスーツ姿の男性たちという組み合わせから、きっと大事な、厄介な何かなんだろうと感じていた気がする。

そんな話をしながら、彼らと会話を続けているところで目が覚めてしまった。だから続きはないけれど、これは一体どういう夢だったんだろうかと思っている。

あとは、昨日の晩、寝る時に少し思ったことがある。昼間に素粒子について触れている本を読んでいた影響だと思うのだけれど、何かを俯瞰して見た瞬間があった。自分という存在、人間というもの、生命というもの、あるいは地球というもの。まさに恥ずかしいくらいに、昼間読んだ本の影響をそのまま受けて、数時間後にそんなことを考えていた。

自分がここにこうしていて、何かを考えているということ自体が、とても不思議なことだと感じた。日常の些細な出来事なんて、なんてちっぽけなことなんだろう。その不思議さに比べたら、本当に取るに足らないものなんだろうな、などと思いながら眠りについたような気がする。

2026-01-02

#800 2025年12月31日

今日は2025年の大晦日である。どうしても一年を振り返ってしまうし、そもそも「一年を振り返るとはどういうことなのか」ということについても考えてしまう。

あまり覚えていないことも多いし、かろうじて覚えていることもある。覚えていることとしては、11月は忙しかったな、ということくらいだ。なぜか急にたくさんのプロジェクトのスケジュールが重なって、チームで協力して乗り切ることができた。一人では当然無理だったし、別に自分が全部まとめたというわけでもない。それぞれのプロジェクトが、それぞれにやった、という感じだった。それはとても嬉しいことだと感じている。

今年は、いわゆる「ベストバイ」みたいなこともしていないし、今年読んだ本を振り返ったりもしていない。それは単純に、この年末に至っても、それより優先度の高いことをいろいろやってしまっていたから、ということでもある。プライベートでも色々あったような気はしていて、とにかくあっという間の一年だった。

いつも思うのだけれど、一週間は本当にすぐだ。もちろん一日はもっとすぐなのだけれど、なんとなく意識としては、一週間を一つの単位として一番強く感じている気がする。一週間で自分の人生は回っている、という感覚がある。こう言うと射程が短すぎると言われそうだし、もし本当にそれしかなかったら問題だと思う。

もちろんそんなことはなくて、数ヶ月から数年にわたるプロジェクトはある。逆に言えば、今のところそれ以上、たとえば10年単位、あるいは数十年かけるようなもの、それはもうライフワークと呼ばれるようなものだと思うけれど、そういう取り組みはしていないし、できていない。林業のように、自分の寿命より遥かに長いスパンを見据える仕事も同じだ。できていないからこそ、そうしたものに対して憧れや尊敬を感じるのだと思う。

そう言いながら、これを書いているうちに、ベストバイとまではいかなくても、「これ買ってよかったな」とか「この本は面白かったな」とか、そういうことを網羅的にではなく、ちょこっと書いておくのも、スナップショットとしては面白いのではないか、と思えてきた。それもまた射程の話な気がする。今日時点で誰かに読まれても、あまり面白くはないだろう。でも、来年の自分や、10年後の自分が読んだら、それはそれで面白い気がする。そう思うと、やっぱり書いておこうかな、と思うわけである。

今年やりたかったことはたくさんあった。できたこともあるし、できていないこともある。むしろ多くのことはできていない。わかったのは、やれることは少ない、ということだし、自分一人ができることは本当に少ない、ということだ。

来年は何をしようかな。やりたいことはあるようで、ないようで、ないようで、あるような気もする。もしかしたら本当はないのかもしれないし、あるのかもしれない。思いつくこと自体はたくさんあるし、やりたいことリストやタスクリストには色々書いてある。でも一歩引いて考えると、先ほど触れたような、圧倒的なスケールに対する畏怖や尊敬のようなものが、自分の中ではまだはっきり見えていない気がする。それを求めるべきかどうか、それを良いものとするかどうか、という問題もあるのだけれど。

今年も色々な新しい人と知り合い、仲良くなった。一方で、去年は交流があったけれど今年はなかった人もいるし、以前はよく交流していたけれど、ここ数年なく、今年もそのままだった人もいる。これについては、まあそういうものだと思うようになった。人間関係について、昔ほど長期的な視点を持たなくなった、とも言えるし、期待を持たなくなった、とも言える。良いことばかりではないし、あまり掘り下げると良くない気もする。

ただ、本当に良くないのかと言われると、そうとも思っていない。今年、色々考えた時期もあって、人間とは結局、乱数に基づいて結果を返す関数みたいなものなのではないか、と思ったこともある。ナラティブだとか、ストーリーだとか、文脈だとか、考察だとか、そういうものが世の中では好まれるけれど、意外にも人間というのは、本人が思っているよりも、周囲が思っているよりも、圧倒的に一貫性のない、ランダムな存在なのではないか。

あるいは、変数が多すぎて、簡単にストーリーとして捉えられるものではないのかもしれない。その人のナラティブを理解しようとすること自体が烏滸がましく、場合によっては逆効果になることすらあるのではないか、と思ったこともあった。

振り返ってみれば、心理学を学んでいたこともあって、人間存在や人間の思考、なぜ人はそう考え、そう行動するのか、ということに昔から興味はあったのだと思う。今でも興味はあるけれど、その度合いやアプローチは常に変わっている。今は「心理学に興味があります」という意識はないけれど、自分を含めた人間という存在を知りたいという欲求はある。

ただ、「知る」ということは体系化を期待する行為でもある。でも人間は圧倒的に複雑で、難しくて、結局のところ、ナラティブを理解しようとするくらいなら、ランダムだと思っておいた方がまだマシなのではないか、そんなことを感じた気がする。いや、これは去年のことだったか、今年のことだったか、もう忘れてしまった。

プロジェクトの数は増え、どんどん断片化しているとも思う。自分自身が断片化し、希薄化していると感じることもある。それでも、やりたかったことや実現したかったことは色々あったし、結局これは、どの役割をやりたいのか、という話でもあるし、実現したいのか、それとも「行為したい」のか、という問題なのだと思う。

相変わらず本は雑に読んでいて、正直あまり覚えていない。でも真剣に読んでも大して覚えていない、ということも同時にわかってきた。雑に読んでも、案外エッセンスは脳に残っている気がする。そして、そのときの自分の脳が受け取れるエッセンスは、レベルの高低だけでなく、その時々で変わるのだと思う。だから同じ本を、しばらく時間を置いて読み返すのは良いのかもしれない。ただ実際には、新しい本を次々に読んでしまっていて、同じ本を読み返すという試みは今のところできていない。

まあそんな感じで、2025年が終わろうとしている。来年は何をしようかな。飽きるというのは、人間にとって重要な機能だと思っている。何かに飽きる瞬間はどうしてもあるし、飽きないものもある。何に飽きて、何に飽きないのか、その違いもまた興味深い。

どうしようかな。

2025-12-31

#799 何かから取り残されているという感覚

なんだかふと、自分だけが何かから取り残されているような、そんな気持ちになる瞬間というものは昔からある。多分、多くの人が、というと語弊があるかもしれないが、それなりの人が、少しは、たまには、そういう瞬間があったりするのではないだろうか。

取り残されているという感覚というものは、そこには必然的に誰かとの比較があるだろう。もしこの世界に自分しかいなければ、取り残されているというものはないし、そういう感覚はないだろう。まあ、その一人というものは、自分だけが残されて、それ以前は誰かがいたのであればもちろんそうなんだけれども、もし生まれてから一度も自分以外の人間に会ったことがない、自分以外の人間が存在しない世界であれば、取り残されているという感覚は存在しないだろう。そうであるならば、何かから取り残されている、誰かから取り残されている、どちらか分からないけれども、とにかく取り残されているという感覚というのは、やはり他人の存在があってこそ感じるものである。

そして、もっと言うならば、一つはそれはもちろん切り口の問題であって、何において取り残されていると感じるのかということ自体は、それは自分が決めているものだ。だから、ある部分では取り残されているかもしれないし、ある部分では取り残されていないかもしれない。つまり、それはそれってあなたの感想ですよね、というインターネットミームではないけれども、あくまでも自分の内心にあるものだ。しかし、例えばだけれども、すごく分かりやすい例で言えば、学校のテストみたいなものがあったとして、それで仮に言うけれども、自分以外の全ての人間は徐々に点数が上がっているけれども、自分だけが一切上がっていないというようなことがあれば、それは数値的な指標によって、取り残されているということが明確化されているということになるし、全てにおいてそれが自分の感じ方次第である、というようなことはできないと思う。

実際にそういうこともあるだろうけれども、もう一つは、事実として取り残されていた場合だとしても、それは本当に悪いことなのか、ということだ。もちろん、それが永遠に続いてしまうと辛いし、辛い気持ちはあるし、けれども、何というか、どうしたって自分より優れた人間というものは多くの場合存在するし、自分が世界一の人間じゃない限り、世界一の人間ただ一人以外は、自分より優れた人間というものは存在することになる。今、あらゆる分野において、一人を除いて全ての人間には、自分より優れた存在が存在するということになる。例えばだけれども、ある環境において、もしずっと自分だけが何かこう前に進んでいる、というか、その前とは何なのかというのはよく分からないけど、もし自分以外が自分より優秀ではない、という状態を感じ続けているとしたら、それはその環境が問題な可能性はあるし、もしくは自分が世界一なのかもしれないけれども。

2025-12-24

#798 レシートは、まだ少しだけ紙である

これを書くのによく使っているGPTがあるんだけれども、最近のOpenAIのモデルのアップデート、つまり5.2が出たということによって、そのGPTのモデルが5.2になってしまった。普段であれば、もちろんモデルの性能が良くなることは良いことだし、問題はない。実際、それほど大きな問題は起きていなかったんだけれども、今回モデルがアップデートされたことによって、今までうまくいっていた出力のフォーマットが少し違う形で、望ましくない形で出力されるようになってしまって、それがなかなかあまり良くない体験であった。

もちろん修正すれば良いので、先ほど修正した。今も実際にそのツールを使っている、そんなGPTを使っている。特に問題はないはずだ。テストもしたしね。しかし、これがたった一つの、自分が自分のために作って、自分が使っているだけの小さなツールであるから特に何の問題もない。ちょっと修正すればいいだけなんだけれども、しかしこれがもし仕事の納品物であったりとか、もしくはチームのみんなで使っているようなものであったりとか、そのどちらか、もしくはそのようなものだとすると、想像するにかなり面倒くさい状況だ。

じゃあモデルを固定すれば良いのだと思うし、もちろんそれはそうなんだけれども、例えばChatGPTが、私がそれ以前うまく動いていたバージョンである5.1というものがあるとして、それをいつまでも動くように持ってくれている、保持してくれているか、動く状態で使えるようになっているかと言うと、それはサービス側に完全に委ねられているし、依存している。しかし、依存という意味で言うと、もちろんそもそもそのサービスで動かしているので完全に依存しているわけだから、一部だけ依存してもいいというか、一部依存することが今更何の問題があるんだというのももちろんわかる。

けれども、やはりサービスが終わってしまったりということと、モデルがアップデートされて挙動が変わるということは、やや問題の深刻度が違うというか、サービスが終了するのであればそれはもう完全に諦めて別のものに乗り換えるしかないんだけれども、その深刻さというものはおそらく明確に認識されやすいものだと思う。一方で、今回のように、しかもむしろモデルが新しくなって性能が良くなるというのは通常は良いことだし、もちろん私も良いことだと思っているから常に最新のモデルを使うわけだけれども、このようにフォーマットが決まっているようなタスクに対しては、そういうこともあるのだなと思った。つまり、今までのプロンプトに対しての解釈・理解・挙動が変わったということになるわけだね。

ところで、この間書いていて自分で思ったんだけれども、タクシーに乗りながら京都の町を眺めながら書いた文章は、別に大した内容ではないし、何の意味もないんだけれども、しかし自分にとっては何か良い読後感があったというか、読後感というか、自分で書いているのだから独語感も何もないんだけれども、文章の長さとか短さとか、そういう部分はやっぱりあるように思っている。話がいきなり飛ぶけれども、まあそれは置いといて。

そのように車窓を見ながら書いた文章というものは、独特の味わいみたいなものがあるなと自分で感じている。一方で、家にこもってパソコンの前に向かって書いているものというのは、やはりある種の閉塞感みたいなもの、閉じこもった感じのベクトルを感じている。もちろんそれも悪くない。それはそれで、元々そのように書こうとしていたものではあるし、むしろ自分の考えとか、踏み込んだところを書きたいのであって、叙情的なことや考えについてランダムに散歩するように掘り下げるというわけではない。

要は散歩だし、ランダムに歩くわけだから、それが掘り下がっているのか、下なのか右なのか左なのか上なのか、もしくは甘いのか後ろなのか、そんなことは全くわからないわけで、どこに住んでいるかなんて全くわからない。しかし、その結果として何か面白いアウトプットがあればいいということでしかないし、そのこと自体もまた一つの実験でしかない。

そもそも、このもうすぐ700回に及びそうなこれを続けているということの意義というもの自体、別に何らかの意義があるのかどうなのかよくわからない。話は変わるけれども、やっぱり紙の記録が残っているっていうのはすごい面白いことだなと思っている。例えばレシート一つであっても、取っていると、もちろんコンビニで何かを買って全然意味がないし、後から見ても何も面白みがないようなレシートもあるし、もう一方で、コンビニのレシートであっても何かしら文脈が乗っかっていて、何かの記憶を想起させたり、誰かとの思い出であるとか、自分がその時考えていたことなんかが思い出されて、すごく面白いレシートもある。

そうではないものももちろんあるし、そうやっていろんなものを残してきたような気持ちになるけれども、デジタル化によってどんどんそういった記録みたいなものはデータの上にしか存在しなくなっている。もちろんそれはそれで便利だし良いと思っている。だから全てをアナログに置き換えたいみたいな気持ちは全くない。

例えば、高齢……そういえばAmazonで何を買ったっけ、この金額で何を買ったっけ、と思った時に、自分のGmailをその金額の数字で調べたらパッと出てくる、というのは、例えば膨大なレシートの中から探すのにかかる時間と比べると圧倒的に良い。一方で、なんとなく、全てがデジタルになってしまった時に、一抹の寂しさを感じたというか、それは最近部屋を片付けていて感じたことでもある。

それは例えば、今年一年の中で片付けをしている時に、そこにあるレシートを見た人にしかわからない、その場に行ってそのレシートを見た人にしかわからないような情報がある、ということだ。そういったものが全てデジタルになってしまうというのは、何か味気ないものがあると思っている。例えばカードの履歴一つとっても、コンビニに行ったという履歴は残るけれども、何を買ったかまでは書いていない。だから単純に記憶が喚起されないというのはもちろんある。

しかし、仮にそれが細かく書いてあったとしても、やっぱり人間というものが物理的な存在である以上、物理的な存在であるものに惹かれてしまうような気がする。そうは言っても、物理的な存在とはいえ、脳みその中というのも結局は脳みそという物理的な存在による物理的な状態であって、何か高次の、ここには存在しない次元のものであるとは考えていない。

それでも、データでしかないものというのは、やっぱり近いようで違うものを感じていて、つまり紙だけではないし、データだけでもない、そこには何か言われるでもなく、言われない良さみたいなものがあるのかなと。では、それは何なんだろう、ということだね。

2025-12-14

#797 対象との距離

今はタクシーに乗っている。京都の風景は、こう見ると全体の色が落ち着いているなと思う。住んでいるとこれが普通になっていてバラバラな感じがするが、遠くから見てみるとある程度制御できているのかもしれない。遠くから見ないとわからないものもあるし、近くから見ないとわからないものもある。

怪しいテレビショッピングのラジオが流れている。MCの人と商品説明をする人が一緒に商品の希少性をアピールしていくわけだ。「なんとか頑張って50個準備しました」とか、「次のご案内は未定なので今回ぜひ」とか、「先着50名」とか、「皆さん全員は買えないかもしれません、限定だから」とか。そういうテレビショッピングっぽいメソッドに、微笑ましい気持ちになってしまう。

しかしそれは、今回たまたま自分があまり興味も関係もない商品だったからそういうふうに見えているだけだ。それもまた遠くから見ることができているということだが、実際に自分が中にいるような商品だったらどうだろう。同じように冷静に見ることができるだろうか。もちろん、それは怪しいだろう。

例えば今、タイムリーな話題として、パソコンのメモリが高騰しそうだということになっていて、早めに買っておこうみたいな話がまことしやかにされている。もちろんこれは相当程度、本当の情報だろうし、背景情報もある。品薄の懸念があるのは事実だろう。しかし、事実だろうと思ってはいるけれども、危機感を煽られているのも事実だし、だから早く買わなくちゃと思っているのも事実だ。それは近くから見ている以上、近くから見ていることしかわからないのも、また事実だ。

2025-12-12