書く実験の記録

#673 じっくり取り組むのがどんどん難しくなっている

ご視聴ありがとうございました。 しばらく放っておくとよくわからない言葉を認識してしまうので今はマイクをちょっとゴソゴソやっていたら変なことを言い出したまあそれもいいだろう

はい、前向きとか後ろ向きとか、まあその物理的な方向とかの話じゃなくて、その性格の話として、まあ前向きな性格だよねとか、もっと前向きに考えようとか言うじゃない。だけど昔、ふとそういうふうに言われたときに、そもそも前ってどっちなんだよとか思ったことがある。もちろんこれはまあまあめんどくさい考えだし、そんなことは考える必要はないんだけれども、まあそういうふうにふと思ったことがある。

この辺はもう少しちゃんと考えると、ある意味で一方通行の時間的な感覚とかそういう思想にも関わっているような気がしていて、つまり過去があって現在があって未来があるという一直線の時間に対する感覚であれば、未来の方を向こうということでそこには一直線の伸びている未来があって、その未来を見ようということになるんだろうが、しかし、そうのような時間的な感覚が一般的な最も一般的な理解であり感覚だとは思うけれども、様々な文化圏であるとかそういう別の考え方であるとかについて、時間に対して存在するものではあって、そういったものに鑑みたときに、果たしてでは前向きとは何なのかということを考えたくはなる。

時間が循環しているような考え方を持っている文化もあるし、それに無限に枝分かれしているようなものであって、そもそも方向性というもの自体が無限にあるという考え方もあるし、そもそも未来とか過去ではなくて、現時点というもの現在以外は存在しないのだという話もあるしいずれも物理的な話ではなくて、思想とか哲学の話なので、どれが正しいとかどれが間違っているとかいうことではないし、そんなことを考えるつもりもなければ、主張するつもりもないんだけれども。

ところで最近、マイクを変えてみた。変えてみたというか、今まではMacについていたノートパソコンについていたマイクを、そのまま使っていて、そういうのもなんというか、実はAirPods Proのマイクで話すよりもMacBook Airのマイクで話す方が、オンラインミーティング相手からの感想を聞いたときに、音質が良い、声が聞き取りやすいという話をされたので、最近はそのようにしている。もちろん、これはケースバイケースだと思います。

そこでさらにしかし最近、その自分が話しているところというところの声というかね、音を聞いたときにややまだ聞きづらいなと思っていて、まあもともとやや曇った声というかすごくクリアで透き通った聞き取りやすい声だよねというものではないし、元々かどうかということは置いておいて、ボイトレのようなものをしてきたわけではない普通の人間なので、いずれにしても元々の話し方自体がさほど素晴らしく聞きやすいものではないんだけれども、それにしてもマイクの質によって変わるのであれば、マイクを変えてみようかなと思ったのがきっかけである。

やっぱりマイクが聞きづらいのは結構つらい。オンラインミーティングをしていても、相手のマイクが聞きづらいとかなりつらい。周りのノイズが入りまくってたりするとつらいし、声が聞き取りづらい人というのもいる、あとは他人数で一つのマイクを使って、少し離れた場所にいる人のマイクが聞き取りづらくなってしまっているというのもなかなかつらいケースだ。

そのような場面に出くわしてしまった場合はやはりおそらくそのミーティングの相手というのは、そのようなシチュエーションのテストが検証があまりできていなかったというか不慣れなシチュエーションなのだろうなと思っている。 自分自身が誰かに対してそのようなことをしてしまわないようにしなくてはいけないということをその時に思うわけだ。

ことわざで言えば人の振り見て我が振り直せということなのであって、そしてこれは別に過去に別に大人数でマイクを使ってきた自分が出会った全ての人を非難しているというわけでは別にないし、あくまでそのようなケースがあったということであって、大人数の場所でもきちんとした適したマイクとか適した席の配置をおそらくしていたことによって全く問題がない時もあるし、別に一人でマイクを使っていても聞き取りづらいなと思う時はあるし。 そしてそれはやっぱりシチュエーションによって違うから、必ずしも100%パーフェクトなことができるわけではないし、自分自身もそうではないと思っているから、あくまでもこれは特定の誰かとか特定のケースを批判しているわけではなくて、そういうこともあるから気をつけようと自分も思っているという話しかない。

というような保険的な発言をしておいた上で、最近そういえばマイクを持ってたなと思っていて、それはコロナの頃につまりオンラインでいろいろしなくてはいけないということに急激になったときに実際買ってみたマイクのようなもので、マイクのようなものっていう文章がよくわからないが、普通にマイクでオーディオインターフェースをつながなくてはいけないから、少し面倒だなと思って長いことしまい込んでいたり、特別な時しか持ち出していなかったんだけれども、思い立って少し出してみた。

それによっていくつか試してみたんだけれども、確かに実際聞きやすくはなっている気がするが、実際のところ、それがどのような印象を与えるのかということはよくわからない、あとふと思ったんだけれども、そうだな。例えば誰かと誰かが話していて、そのような音声であるとか動画であるとかというものを聞きやすくするときには、それは自分だけが話しているのであれば、一つの音の調整をすればいいんだけれども、二人で話している場合は、必ずしもそうではないので、まあなんというか、どちらが話しているかということを分離させなくてはいけないんだなと思っている。 そうは思っているけれども、この分野は別に自分が専門ではなくて、ちょっとやってみたけどそうなのかなと思っているだけなので、間違っているかもしれない。

そして先ほど使おうかなと思ったときにふとしたときに実はマイクの設定がMacBookの方ではなくて設置したマイクの方になっているということに気づいてそしてそれは問題がないではないかと思ってしまうかもしれないが実は問題があってそれはそのマイクの方は言っても普段は邪魔だしそこまで必要ではないので特別に必要なのにあったときだけ出そうと思って少しむしろ離れた場所に置いてあってつまり それを使おうと思っていないマイクの方につながっているというか、そちらを使ってしまっていたということになるのであって、そのような切り替えを簡単にできるようにしなくてはいけない。

ポッドキャストが流行るとか言われてもう何年も経っているが、一向に流行る気配はないもしくは、今の状態がもう流行っているということなのかもしれないが、それではややインパクトに欠けるように思うやはり、流行っているというほどのインパクトはまだないのではないだろうか。

そのように思いながらもとはいえ、音声メディアの価値というのはすごく持っている。音声メディアというか音声を通じての情報提供もしくは情報伝達そしてコミュニケーションということだろうか。

人間というものは根本的にマルチタスクなどはできないと私自身は思っていて、近年そういう研究自体もあるというか、研究しなくてもそりゃそうだろうと思っているけれども、本当の意味で同時に2つのことに意識を向けるのは難しいわけだ。

難しいという日本語自体が難しいなと思う難しいという表現は当然その字のままで言うと当然難しいということを意味しているつまり難しいが不可能ではないということを意味しているわけです。

しかし、ここがコミュニケーションというか日本語コミュニケーションの難しいところで、難しいと言いながら無理である不可能だということを意味している場合もおり、もしくは実質的に不可能ですよということもあるだから、不可能なら不可能だと言ってしまった方がコミュニケーションがシンプルになることもある場合によっては、難しいですねと言っても、難しいけれどもできるのかというふうに思ってしまうこともあるわけだだから、そのニュアンスみたいなもの特に技術的なことであるとか、もしくは予算的なことであるとか、何かを実現しようと思うと、やはり何もかもがすんなりいくということはなくて、何かの壁にぶつかってしまうことはあって、その壁というものは、時間であったり、予算であったり、技術的な難易度であったり、もしくは人的なリソースであったり、機材的なリソースであったり、もしくは全く別の何かであったり、政治であったり、法令であったり、倫理であったり、いろんなものがあるかもしれないけど、とにかくいろんな壁にぶつかることがあるように思っている。

技術を扱っていると、何かのハードルというものは技術にすごくあるように思ってしまうかもしれないし、分からない。これはもしかしたら技術を扱っていない方が解像度が低い方が、そのように思ってしまうのかもしくは思ってしまわないのかということは分からない。

そろそろ後で自分で読み返すのも辛い長さになってきたしなってきたというかもう遠の昔になっていて、人間というものはもはや長い文章を読めないなと思っている。

これはあまりにも主語が大きくなってしまったし、全ての人間がそうなわけではもちろんないし、自分も読めないなと思うときと、ちゃんと腰を据えて読めるときというものがあって、やっぱりでもちゃんと腰を据えないと長い文章は読めないように、生活がそのようになってしまってきている。生活や仕事の進め方がそのようになってきてしまっていると思う。

でも本当はその時間がすごく大事だと思っていて、長い文章を読んだり読むというのは、読むこと自体が大事かどうかというよりは、その中で起きる身体的な反応、それは脳みその中も含めたことを、私は身体と言っているけれども、そこで起きることが大事なんじゃないか。

じっくり何かを読むということであったりとかじっくり何かを考えるということであったりもしくはじっくり何かを作るということであったりそれはその時間をかけるということ自体に価値があるということが多数ある一方で、私たちといってもまた主語が大きくなってしまうが、自分が観測している範囲では、一つのことに何か長い時間をかけるといううちがどんどん減ってきてしまっているように思う。結局長い時間をかけるというのは、いろんなコストがかかるお金もそうだし、もしお金が例えば定額制だったと仮にしても、なんだろうね、そのような気持ちで取り込むことがどんどん難しくなっているように思う。

そして その よう な 状態 が 決して 良い わけ で は ない と 思っ て いる けれども しかし 否応 なく その よう な 状況 に どんどん 進ん で しまっ て いる その よう な 状態 に どんどん なっ て しまっ て いる よう に 感じ て い て その こと を 何とか し なく て は いけ ない の だ が 一方 で その 状況 を 何とか 力業 で 乗り切っ て 乗り切る という こと で しか 開け ない もの も ある よう な 感じ が し て い て そこ は なかなか 難しい な 自分が2人いたらじっくり何かをするということと、あらゆる手を尽くして真のマルチタスクは存在しないと自分自身では思っているけれども、コンテクストスイッチを高速にするということであっても、そのしんどさに無理やりでも向き合って付き合っていくというどんどん一つに集中するという時間自身自体そして時間を使ってそれをやらないとそういう能力自体も失っていくように思うんだけれどもそのような状態を何とかしてやっていくということと両方本当は試したいが 両方試すということ自体がそもそも矛盾しているのでそれはできないわけだ。

2025-05-05

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です