#683 継続の価値は後付けである

ずっと続けていても成果が出ないことというものはある。そもそも始めること、まずやってみること、そして継続すること——それが難しいし、そこに価値があるのは事実だけれども、しかし残念ながら、継続というものもまた成功を約束するわけではない。
「継続をしたものが成功するわけではないが」という話は、昔、何かの本に出てきたセリフで、確か漫画だったように思う。努力する者は成功するとは限らないが、成功する者は皆努力をしている——みたいな話だったように思う。この「努力」というものを「継続」というものに置き換えてみても、その構造は同じだろう。
ここでは別にとても難しいことであったり、例えば世界一になるとか、そういうことでないとしても、もっとちょっとしたレベルであっても、ちょっとした行為の継続によるちょっとした結果であっても、なかなかたどり着かない場合というものはある。
そこには運の要素も大きいし、もちろんやっていなければ運に引っかかることもないから、やることに意味はあるんだけれども、しかし「やったから成功したんだ」というのもまた、それはイコール(=)ではない。
人間のリソース——要は時間というものは有限なので、「やった方がいい全てのこと」をやることはできない。本当は自分が「やった方がいい」と思うこと、「やりたい」と思うこと、全てをやりたいんだけど、やれることができたらどれだけいいだろうと思うけれども、有限の人生の中ではもちろんそれは無理だし、もし人生が無限にあったとしても、あくまでも自分という存在は一つでしかなく、いわばシングルタスクであるがゆえに、その「やるべきこと」や「やりたいこと」を全て消化していくよりも、おそらくそのような「やるべきこと」や「やりたいこと」が増えていくペースの方が早いことが考えられる。
そうすると、もしかしたら「人生の有限性」というものは、必ずしも最も大きな、重要なファクターではないのかもしれないという気すらしてくる。だから、もし人生が有限でないとしても、取捨選択をするということを避けることはできないわけだ。
私はつい、そして私たちはつい、「人生の有限性」というものを前提において、「だからこそ取捨選択をしていかなくてはいけないのだ」と思っているけれども、実は本当はそうではなくて、「自分という個体の有限性」であったり、引いては「要はシングルタスクであるということ」——リソースの有限性だね——ということに起因するのかもしれない。
だからもし平たく言ってしまえば、人間が永遠に生きられるようになったとしても、自分は一人でしかない以上、そのリソースの限界に縛られているし、もし何らかの技術によって並列処理ができるようになったとしても、その並列は無限ではないだろうし、やはりリソースの有限性というものはある。
もし自分というものを並列処理することができて、しかもその並列処理が無限に増やすことができたら、そして「人生の長さ」というものもその有限であるということから解き放たれて、永遠に生きることができるようになったとしたら、その時こそ本当にリソースの制限から解き放たれて、思いつくあらゆるおよそ全てのことをやることができるのかもしれない。
しかしまあ、現実的には何かを成そうとする時に必要な物的資源であったりとか、そういった、結局は現実物理世界に縛られてしまうので、まあやっぱり取捨選択はしなくてはいけないのだなというところに帰ってくる。
ところで、私は毎日プライベートなメモみたいなものを、前日のことを思い出しながら書くようにしている。それは日記というほどにすら大したものではなくて、「何があって、それに対してどんな感情を抱いたのか」ということを記録しているだけだ。まあ、それを日記と言うんだろうが、なんとなく自分ではそれを日記とは思っていないところがある。それがなぜかはわからない。
いつからそれを始めたのかは定かではない。まあ、遡って確認すれば明確になるのだろうが、これはまあ、「なんかこれをやっておくといいことがありそうな気がして」書いてみたものの、今のところこれがすごく何かに役立ったということはない。
まあ、何か忘れ物とかをした時に、その忘れ物をどこにしてしまったかわからない時にこれを見返すことによって、多少記憶がよみがえる。少なくとも「どこに行ったか」の記憶が蘇ることはあるし、そういう実利的な部分というものはあるけれども、もっと抽象的で高次な部分については正直よくわからない。まあ、よくわからなくていいんだろう。直接的な何か成果を求めているものではないしね。
毎日前日のお金の出入りなどを確認していたりとかするのは、もしかしたらなんとか破綻せずに生きているというものをギリギリで支えている要素なのかもしれないし、そしてこうやってパブリックな文章を書いているというものも、「何のためにやっているか考えているわけではない」と嘯いているけれども——嘘をついているけれども——自分では考えているけれども、しかし実際のところは「何か自分の人生に寄与してほしい」「寄与するはずだ」と思って、仮説を立ててやっているのではある。
しかし残念ながら、それが必ずしも何かに繋がるわけではないのだ。そして、もしこれが何かに繋がった時、何か明確なものを自分が感じた時、きっと後から自分はその行為を肯定する。その継続自体を肯定するのだろうし、その継続が意味を持った、意味を持っていたのだ——あらかじめ意味を持っていたのだと考えるだろう。
しかし、それはただの生存バイアスであって、その他の「意味を持たなかった様々な行為」「様々な継続」というものは、単に忘れられる。もしくは「何もなかったこと」になっていくだけで、単純に「結果的に」「たまたま」「偶然」何かに繋がった、何かがあった、ということでしかないような、そんな気持ちになる時はある。
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