書く実験の記録

#684 本の内容を後になって突然思い出す

なんか色々と何かを断言するような喋り方をする人はいる。そして、それって聞くとなんかかっこいいなと感じることもある。特に、まだ若いうちとか迷いを持っている時というのは、そういうものに対して何か楽しさを感じてしまう時もあるだろう。楽しさじゃなくて頼もしさだね。頼もしさ。

ここでは特に、まあ、その頼もしさというものではなくて、そういう話ではなくて、えっと、その断言をするタイプの人というものに対して批判する文章でもないし、もちろん賞賛をする文章でもない。というか、特に何も考えていない、ただの思いつきを書く場所だ。

しかし、そうは言っても今、頭の中に3つぐらいの方向性のテーマがあって、1つずつ書いていくとだいたい1つ目で終わるので、ここで試しに列挙してみよう。そう、とりあえず試しにやってみる。

「とりあえず試しにやってみる」というのは、今年の頭に重要なテーマとして改めて設定したものだ。もともと、もちろん大事だと思っている。職業とか立場とかによっても、取るべきスタンス、取るべきスタイルは違うと思っているけれども、少なくとも今の自分にとっては、自分のリソースが許す範囲で——それは自分だけで全てをやるということではなくて——誰かの助けを借りたり、そのために例えば報酬を支払ったりとか、それ誰かにお願いするための情報をまとめる時間とかも、いろんな、その、誰かにお願いするにしてもリソースは使うわけで、そういう意味で自分自身のリソースが許す限りで、自分自身とそれを助けてくれる誰かの力で可能なことを色々と試していく。

そして、それは特に自分が関わっているような——私が関わっているような——領域、もしくは私自身の興味なども含めると、まだ見たことがない、まだやったことがないこと、そういった相対的に新しいこと。もちろん世界で初めてみたいなものばかりではないし、自分にとって新しいだけで、別に別の人にとって新しいわけではない。

そうこうしているうちに、音声入力が途切れているというか、入力のフォーカスが外れていることに気づいて、というか、そのことに気づかずにしばらく入力をしていて、いくつかの文章が——というか、結構な文章が——失われてしまって、びっくりしている。

時々このようなミスをしてしまうので、これはなかなか今後も気をつけなくてはいけないと過去に思った記憶があるのだが、それについて今のところ有効な明確な手立てがない。

話をしていたか、何の話をしていたかということを覚えている範囲で書いてみると、「とりあえず試しにやってみる」ということの重要性であるとか、「とりあえず試しにやってみる」というそのテーマを以前も話した気がするけれども、そのテーマが今また浮かび上がってきたということの意味であるということとか。

あとは、私は本を読んだ時に、残念ながら必ずしもその本の内容をきちんと100%覚えているわけではないし、まあ100%覚えているわけではないけれども、10%、もしくは30%くらい覚えていたらいいかというと、全く覚えていない時もある。できればもっとちゃんと覚えておきたいんだけどね。

しかし、残念ながらちゃんとすごく覚えておくというのは苦手だったりとか、もしくは、ちゃんとすごく覚えておくための行動、つまりゆっくりじっくり本を読むというよりは、今はどちらかといえば薄くてもいろいろな本に触れてみる、色々な本を読むというのを、まあここ数年来やってる気がしていて、それはそのように思っているからそれでいいのだ。

しかし、そうしていても覚えている本、覚えているフレーズなどはいくつかはあって、もうどの本に書いてあったのかということすら覚えていなかったりするから、引用には気をつけなくてはいけないんだけれども、まあとにかく、そうだな、そのような雑な読み方をしてあまり覚えていない、なんかでも覚えているものとか、そもそも読んだ後には覚えていないけれども、ある時ふと別のエピソード、別の何かの出来事に際して、「そういえば昔読んだ本にこういうことは書いてあったな」と思い出される。

文字通り有機的に。それはつまり、脳のネットワークが突然繋がって、もしくは、自分がもはやコントロールすることができない脳という組織がどこからどこかから掘り出してきて、突然それを処理の上に乗せてくれる時というものがあって、そこに、その過程にこそ、そのフィルタリングされる過程にこそ意味があるのだと思うことがある。

だから、何だろうな、100%の内容を覚えている頭脳はないけれども、まあそもそも100%の情報を覚え続けてしまう人間というものはとても辛いだろうし、それこそ、それを処理するということがより困難になってしまうだろうし。

自分は、自分という処理の仕組み——それが世界で一番優れているかどうか、まあそんなことはないわけだが——より良い仕組みなのかどうかということは、もはやわからないし、全然そうは思わないけれども、遺伝的アルゴリズムに駆動されて発生した、そして発生の後、様々な環境要因によって現代・現在のような身体——頭脳も含めて——だった私は思っているけれども、そのような物理的な存在として、構造として、そこに意味はないかもしれないが、答えとしての意味はないけれども、巨大な遺伝的アルゴリズムによる実験という全体においては、そのまま実験としては意味はある。

まあ、もちろんそもそも意味なんてものを無理やり見いだそうとすると、それが見出されなかった時に、というかそもそも見出されないと思ってるんだけれども、困ったことになってしまったりとか、まあ何か落ち込んでしまったりとか、前に進めなくなったりしてしまうと、それは本末なので、あまり意味などを考えないのだけれども。

2025-06-06

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