書く実験の記録

#689 暇してると碌なことをしない

暇になるとろくなことがないとか、暇だとろくなことをしないみたいな、そういう言い方というか言葉というかフレーズがある。それについては賛同するし、暇ではないということは大事なことだ。これはもちろん、全く余裕がないということとは違う。

余裕があるということと暇であるということは違うと思うし、余裕は心に豊かさをもたらしてくれるけれども、「暇だな」という気持ちっていうのは、決して心に豊かさをもたらしてくれることはなく、むしろ自己効力感の低下であるとか、悪い影響を与えてしまうものだと思っている。

忙しすぎるのはもちろん良くないんだけれども、適度にやることがあるということ。それは、自分にはやりたいことがあったり、誰かにお願いされてやることがある、自分にはやるべきことがあるという気持ち。そして、自分にはそれをやる能力がある。今すぐあるわけではなくても、ちょっと頑張ればできるとか、努力をすればできるとか、そういう感覚っていうものはとても大事なものだと考えている。

しかし、もしあなたや私が「じゃあ明日からあなたの能力はもう必要なくなったから仕事に来なくていいよ」と言われたらどうだろう。もちろん収入がなくなるのは困る。ただ、じゃあもし収入がなくなっても……いや違うな、仕事がなくなっても収入があれば問題ないんでしょうか? 問題ないんだろうか?

毎日遊んで暮らすのも悪くないだろう。そのうち飽きてしまいそうだが。しかし、そういう状況もまた、お金があったとしても、暇をしてるのはよくない。「ろくなことをしない」ということに繋がってしまうかもしれないし、まあそういうニュースとか事件もたくさんある。

お金持ちの話は置いといたとしても、もし何かをして十分に暮らせるような給料・収入が得られない場合、それはその仕事は尊厳を奪う仕事であるという感じがする。これは生活給の概念だね。しかし、そのような考え方は失われつつある。あまりわかっていないし、ある人の都市伝説みたいなもんだと思っているんだけれども。

昔、ネズミをある閉鎖空間に閉じ込めて、十分な広さ、十分な餌を与え続けて、そしてもちろんそこには天敵もいないから、ネズミたちは完全に何の心配もなく幸せに暮らしているという状態を作った実験があった。確かその実験では、最後にはネズミたちは何もしなくなり、繁殖すらしなくなり、数が減っていったね。

人間とネズミを同列にすぐに考えることはできないけれども、考える材料としては、あくまでもイメージではあるが、人間もまたそのような状態に絶対にならないという自信を持って言える人はいないだろう。それは多くの人間を見ていれば、移す……そう感じる部分なのではないだろうか。

自分にはそれができるはずだと思うし、それをやる能力があって、かつそれをやる機会がある。そして、そこにはある程度の賞賛や感謝、人として当たり前の範囲でもいいので、感謝であり報酬であり賞賛であり、そういった尊厳を保つためのものをいっぱい得られるということ。

だから、収入があるということと尊厳が保たれるということは、両方必要だし、必要なことなんじゃないかなと。治安を維持するために必要なことなんじゃないかなと思っていて。

すべてAIがいろいろな労働を代替していく過程で、それは収入だけではなくて、尊厳を奪われていくということにならないように。もちろん両方必要なんだし、両方が必要なことであって。

ただ、自動車が発明されたりとか、自動食器が開発されたりとか、それはその瞬間その瞬間では抵抗もあったし、ネガティブな影響とか失業者とかもあったわけだけれども、なんとか人間はそこからちゃんと前に進むことができたから今の時代があるわけなんだけれども、知的労働が代替される時にはどうなっていくんだろうな。

2025-06-13

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