書く実験の記録

690 端的さと遠回りのあいだで

例えば、生命にとって一番恐ろしいと感じるのは「死ぬこと」であると言うと、かなり一般論としてそうであるという一方で、かなり反論の余地がある。いくつかの反論の方向性はあると思っていて、もちろんそもそもなぜ生命が大事だと感じるのか、もしその「生命が大事だと感じる」という前提に立ったとしても、なぜその生命が大事だと感じるのかと言うと、それは「感じる」ということ自体も生存し、繁殖し、子孫を残すための結果として、そういう機能が役立って、そういう感情の機能は役に立ってきたのだ、みたいな言い方もあるだろうし、

そもそも「それが一番ではない」という方向で考えると、例えば自分の子供であるとか、大切なものを守るときに自分の命より何かを優先にすることはあるだろう、という反論の方向もあるだろう。まあ、いろんな反論のやつはあるとはいえ、これらを包括して何かを言うことはできる気はしていて、自分や子供、もしくは大切な友人であるとか、そういった人間たちの生命、もしくは生命そのものに影響があるようなものでないにしても、怪我をしたり、病気をしたり、そういったものは望ましくはない。

できれば皆が健康で安全で幸せに生きることができると良いということについては、それがどこまでの範囲でそれを考えることができるのかというのは非常に人によるだろうけれども、一部の幸福に生きることができるということを人は望んでいるし、そうではなくなることを望んでいないし、それを避けたいと思っていると言ってしまうのは、大きな間違いではないだろう。

エクスキューズを満載にしたこのような状況な文章だけれども、これを非常にもっと端的に言えば、「人間にとって一番大事なのは生命である」ということになる。これを言うことができれば、これは非常にシンプルで、かつ切れ味の良い読みやすい文章になる。

しかし、そこに様々な補足であるとか、前提であるとか、「まあこういうケースもあるよね」みたいな言及であるとか、そういった色々なものを入れていくことによって、誰にとっても間違っていない文章に近づいていくけれども、内容としてはどんどん一人に与える内容としては薄くなっていく。何かの翻訳書などでよくあるような気がするけれども、例えば「例え話が多すぎる」という時もある。

何か一つのことを言おうとして、それの例え話をいくつも並べるというのは、今から言うのはあくまで感覚的な話だけれども、翻訳書に多いような印象がある。これは本当に別に数えたわけではなくて、あくまでそういう印象を持っているというだけの話。まあ、それが事実あるかどうかは別として、とにかくその補足的な文章、例えば話が並んでいて「これもうちょっと多いなあ」と思う時というのは、要はその本来となる例え話で伝えたいこと、本来伝えたかったことはもう理解できているにもかかわらず、「この例え話はちょっと余計だな」と思っているわけだ。690円

2025-06-14

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