#702 まだ形を持たない「場」をめぐって

メタな感じだけれども、引き続きこの場所をどのように使っていくと良いのかということについて考えてみる。
大事なのは、まずは発散かもしれない。友人で交換日記をしている人がいる。交換日記と言っても、小学生がやっているノートの交換みたいなものではなくて――と言っても今どきの小学生がそんなことをしているのかはちょっと知らないけれども――まあとにかく、そういうものではなくて、ある公開されている文章のやり取りをオンライン上で行っているわけだ。非常に良い試みだと感じている。
その場で会話をするのも、もちろんとても興味深いこと、楽しいことなんだけれども、少し落ち着いて時間をかけて誰かとそうやって対話するという機会はなかなかないし、そこによって生まれるものもあるだろう。
もしくはこちらは、まさに対話だけでも、固定した2人のメンバーで定期的にPodcastをしている友人もいるし、あるいは毎回違う人を呼んできて対話をして、それをNotebookLM――これはGoogleのサービスなわけだけれども――それを使って対話として分かりやすく仕上げているというようなことをしている知人もいる。
他にはどうだろうな。例えば、私はこの場所をどのように定義をするのかということ自体におそらく興味があって、そこから生まれるもの自体には興味がない……と言ってしまうとそれは言い過ぎで、興味はもちろんあるんだけれども、興味における強さ、優先順位としては、どちらかといえばその場をどのように定義するのかということの方の興味が強くて、その場によってどんなものが生まれるのかということは、それよりは興味が弱いと思っている。
というか、その場がどのようなものであるのかということの方がより支配的であると考えているわけだ。これはある種の人間の性格などの議題にも通じるのかもしれないけれども、その人の性格、もしくはその時の意思決定みたいなもの――つまり人間の意志というものがいかに決まっていくのか、いや違うな、「意志が決」というのはおかしくて……まあ、物事を考えて何かを決めていく、まあそれが行為として連なったものが1つのアウトプットになる。それが、例えば文章であったり、何かの作品であったり、何かの仕事であったり、とにかくあらゆる瞬間のあらゆる意思決定に基づいて何かが生まれてくる。それが「行為」というものなわけだから。
まあそうは言っても、これはちょっと語弊があるというか、完全に私が「行為というものが人間の意志に連なっているものである」「従属するものである」と思っているわけではなくて、人間の意志によらずに行われる、もはや自動的な行為のようなものもあると思っているし、しかしそのようなものというのは自然に身につくものではなかったりする。
本当に、あらかじめ生まれつき本能として備わっているもの、もしくは反射として備わっているものを除いて、構築的なもの――後から身につけたもの――というものは、「その後から身につけた」ということが、やはり環境に影響されていると考えているので、本能に基づく行為以外は、すべて影響を受けているものだ。
コメントを残す