#716 期待と合意

他人に期待をするということ、他人に期待しすぎであるということ、もしくはそれは別に期待しすぎということではないということ。そういったことに思い悩んだことが誰しもあると思う。
例えば、「これをやって報告をお願いします」と言って、相手は「分かりました、やりますね。今週末、何々があるので、それの後に報告しますね」と言ったとする。しかし、それは実行されない。
これは期待しすぎなのかというと、まあそんなことはないと思っている。これは単純に、普通に合意があるということだと思っている。
その他にも、例えば締め切りがあるタスクみたいなものがあったり、もしくは何かのミーティングの約束があって、そこに人が来なかったりすることはあって、そういったことは他人に期待しすぎなのかどうかということについて悩むことはある。
しかし、これらのことはすべて、やはりどう考えても言語化されていて合意していて、しかもそれが記録に残っていたりするのであれば、それはやはり相手が果たすべき責任であって、これは決して期待しすぎなのではないのではないだろうか。
だって、「何日の何時にミーティングしましょう」「分かりました」と合意して、そこに相手が来なかったことに対して落胆や怒りを感じるとして、それが「期待しすぎだよ」みたいな話をすると、めちゃくちゃ面倒くさいというか意味がわからないというか、「さすがにそれはちゃんとしてよ」という気持ちになる。
例えば役割というものがあったとして、例えばだが、経営者というポジションの人がいたとして、それは経営をやるという合意があるはずだ。それはまあ、暗黙の合意ではなくて、例えば明確に役職がついているとすれば、それは役割である。だから経営者が経営をやるということに期待をするのは決して期待のしすぎではなくて、ある種の合意に基づいたものである。
であると考えていいだろうと私は思う。その他にも、リーダーはリーダーたるべきだし、プログラマーはプログラマーたるべきだし、そこには合理的な期待があるというか、その期待には合理性があるだろう。
しかし実際のところ、世の中はなかなかそうはならない。ミーティングには来ないし、タスクの締め切りは過ぎるし、役割が与えられていてもその役割を果たされない。
そんな時、「これは相手に期待をしすぎなのだろうか?」と思うわけだが。そして、それはまあ自分を守る手としては確かに期待をなくせばいい。人間がミーティングに来ないのは当たり前だし、タスクが実行されない。そして報告がないのも当たり前だし。
誰かが役割に基づいた行動をしない、合理的な行動をしないというのも当たり前で、それらに期待するのは期待しすぎなのだと。そういうふうに考えることもできる。
しかし、さすがに思うんだけれども、全く期待をしないというのは難しい。期待をしないと確かに気持ちは楽なんだけれども、それは人を孤独にするというか。コミュニケーションを取るというのは、やはり多少なりとも何かの期待をしているわけだし。
役割に基づいて、誰かに役割があるとして、そして自分にも役割があるとして、その役割を実行しているとしたら、それは自分も相手に期待しているからこそ、自分は自分ができることであるとか、課された役割みたいなものを実行するのであって、要はそれらは投資のようなものだと思っていて、期待をするから人は投資をするのだ。
期待をしても――いや、違うな。期待をせずに投資をすることができると、もちろん一番楽なんだけれども、実際にはそんなことはありえないと思う。よほど余裕があってね、めちゃくちゃ余裕があって誰かにお金を貸したり、という時に、返ってくることを期待しないということはある。
実際、他人にお金を貸す時は、返ってくると期待をするべきではない。期待をしなくても、つまり返ってこなくても、まあいいかと思えるような相手であるとか、そういう金額だけ人に貸すべきだというのは、まあ実際のところ思っている。
しかし、それと矛盾するようだが、例えばチームの中で何かの役割を果たすというのは、自分も役割を果たすし、あなたも役割を果たそうね。そして、チーム全体として何かメリットを得ようね、という将来への期待というものが多少なりとも存在するはずで、そこに全く期待をしないというのは、まあまあどうなんだろう、現実的ではないのではないだろうか。
だから、期待しすぎかどうかというのは、もちろん暗黙の期待というか、何も言っていないしコミュニケーションを取っていないんだけれども、「あの人はきっとこうしてくれる」と思っていた、みたいなのは、場合によっては期待のしすぎかもしれないし。
しかし、例えばコンビニの店員が――わからないけど、ものすごく適当な例えを今思いついただけだけれども――例えばコンビニの店員というものが一定の衛生観念を持ってそれに取り組んでくれているというのは、合理的な期待だと思うし、それは資本主義において自然にそうなるというものでもあると思うが、しかしその結果、私たちはそのような期待を抱いているし、そのことに特に、こう、なんというか、いちいち言葉で合意しているわけではないわけだ。
だからそれは暗黙の期待と言えるだろう。だから暗黙の期待のすべてが悪いわけではないとは思う。そこには暗黙ではあるが合理的な期待というものも存在するだろう。
結局、筋を通してほしいだけなんだと思う。筋が通っていてほしいだけなんだと思う。
もちろん、この考え方を強くしすぎると、いわゆる「公平世界誤謬」と呼ばれるようなものが存在して、つまり「世界は公平で公正であるべきである」という考えに陥る可能性がある。
そうあるべきなのに、そうあるはずなのに、そうではないということに、という誤謬だね。だから、そういう世界は公平でも公正でもないということを前提として、そのように世界を捉えてしまうという誤謬。
だからこそ、その誤謬を犯してしまっている人は、この世界に不満を感じてしまうわけで、それがどこで線引きをするべきなのか、どこで線引きができるのか、よくわからない。
しかし、やはり仕事において約束をしたことというのは果たされてほしいと思うわけだ。
非常に平たく言うと、やっぱり筋を通してほしいというだけなんだよね。
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