#717 ねだることと、要求することと

試しに書き始める前に、10分ほどChatGPTと会話をしてみて、その上で何かのテーマを掘り下げるようなことをしてみて、それを書くということを試している。しかし、これはなかなかうまくいっていない。
しかし、ChatGPTと今話しているこの10分間というものは、あまりそうではない。それはたまたまだったのかもしれないし、いつもそうなのかもしれない。わからない。もう少し試してみよう。
今日話していたのは、何かをねだるということと、何かを要求するということの境界線についてだ。何かをねだるというと、感情や情緒に訴えかけて、もしくは弱い立場の人間が、あるいは何かに頼っていたり依存していたりするようなイメージがある気がする。それが悪いことなのかどうなのかはわからないけれども、何か悪いイメージがつきまとっている。一方で、要求するというのは、もう少し毅然として強いイメージがある。そこにあるのは自立性なのだろうか。自立と誇りというのは大きなテーマだと思っている。
しかし、何かをねだるということと要求するという行為は紙一重であって、要求だと思っていても実はねだることになっていたり、ねだっているかもしれないと思っていても、実は要求になっているかもしれない。もしくは、ねだっているようなことになってしまっているとしても、例えば論理であるとか、そういったものをきちんと揃えて整えることで、それは容易に要求に化けるだろうし、要求もまたそのような要素を欠くと、それはねだるということになってしまうのかもしれない。
そもそも、例えば自立性とか誇りとか、要は毅然とした態度のようなものは非常に定性的でもある。だから、内容として特に根拠も論理性もないようなものだとしても、毅然とした態度で求めたり、何かを言っていたりすると、それは立派に要求をしているという雰囲気になる。
これはなんとなく想像するとそんな気がする。ねだるということにある非論理性や情緒性から抜け出してはいないのだけれども、単純に態度一つで変わってしまうということだ。逆に言えば、ねだるということと要求するということには大きな違いはないのかもしれないし、しかしその小さな違いが大きな意味を持っているのかもしれない。
昔、『エウレカセブン』というアニメで有名なセリフがあって、「ねだるのではなく勝ち取れ」というようなことを言っていた。それはつまり、自分で状況をきちんと動かして、手に入れることが必然となるような、しかるべき状況を作り出せということを、その幼い少年の言葉に託して言っていたのだと思う。あのアニメを貫く大きなテーマだったのではないだろうか。あの少年の成長というのは、おそらく良いキーワードだ。
無力な子どものうちは、そもそもねだることしかできないだろう。赤ん坊は何もできない。泣いて何かを要求するというのは、しかしそれはねだっているのではなく、立派に要求していると言えるかもしれない。それはなぜだろうか。なぜそれはねだるのではなく要求なのだろうか。もしくは、そこに違いはないのだろうか。赤ん坊が泣き喚いて母乳をせがむということ――この「せがむ」というのも一つのキーワードかもしれないけれども――その母乳をせがむということは、果たしてねだっているのか要求なのか、それともそこに違いはないのか。
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