書く実験の記録

#720 偶然の条件の上で考える

自分が得たものをどのくらい分配すべきなのかということであるとか、そもそも自分は一体何を得たり何を失ったりしていて、それはなぜなのかということについて考えることがよくある。1つはそれは再配分の話であるし、もう1つは運や責任、努力などといったものの話だと思う。

何をどのくらい分けるべきなのかというのはマイケル・サンデルなどが議論しているわけだけれども、その再配分の割合について考えてみたい。

実際のところ、マイケル・サンデル、もしくは彼のような考え方をする人たちは、成功もそしてその成功に導いた努力のようなものもまた偶然によるものであるというようなことを主張していて、「たまたまそれが生かされる環境・社会・時代と合致した結果、それがたまたまお金になっただけなのだ」というような話をしている。それに関しては私もそのような感覚はある。ちなみに、私は別にお金持ちではないが、少なくともなんとか一般的な一市民として生きていられては今のところいると思うし、もちろん10年後とかは分からないし、何なら数年後とかも正直言って分かるわけではないけれども、しかし明日いきなり困ったことになるという可能性は比較的低い。ありがたいことに賃貸だが家も借りているし、一緒に仕事をする相手もいるという幸運に恵まれているわけだ。

しかし、人生のことを思い返すと、いくつかのターニングポイントで、もしくはターニングポイントというか、小さい頃の記憶なので、何かを自分の意思とか力によって解決できたわけではないように思っているからこそ、まさにその与えられたものなのだと思う。そうだな、まあ、それが偶然だったのかどうかということもわからないけれども、とにかくこの条件がなかったらもっと大変なことになっていた。そしてその条件があったのは、いろんな偶然とか、まあたまたま、もしくは人の意思みたいなものもいろいろ絡み合って、その偶然の条件があったんだとは思う。しかし、例えばある人がその場所に住んでいて、そういう関係であったということが一つの救いであった。具体的にそれによって助けられた部分があったとして。

もちろん、それは様々な偶然とか様々な意思に基づくものなんだけれども、しかし不慮の事故とか思わぬ病気とかによって、その人というものがそこにいなかった可能性というものは、どれだけいろんな人が自分の意思を持って行動したとしてもあり得たわけで。そうすると、それはやっぱり偶然なのだなと思うことはある。だから、私自身も様々な偶然によって、たまたま今生きているのだというような感覚はある。

そこについては別に反論する部分はないというか、まあ中道的な考え方だと思う。しかし問題は、結局そのような根本的な哲学ではなく、実際的な実践のところに課題があるということだ。自分の才能や努力によって何かを得たとしても、それがすべて偶然の産物であるということ自体には「そうなのかもな」という感覚はある。しかし、そこに再配分の問題を組み合わせた場合に、だからといって社会主義的に全ての生産の果実、全ての成功の果実をまったく同じく分け与えようとすると、その社会はやっぱりうまくいかないような気がするし、自分自身においてもそうだ。

再配分を否定するつもりはない。具体的に、その社会は治安が良い方が良いし、互いの信頼関係があった方が生きやすいし、具体的なコストも低い。例えば、日本がもっと治安が悪ければ、家のドアをもっと厚くしなければならなかったり、鍵をもっと付けなければならなかったり、割れづらい窓にしたりと、様々なセキュリティ対策を講じなければならず、そこにはきっとたくさんのお金がかかったと思う。

だから、それは自分自身の出費を減らしている。この社会の安全性は、いろんなお店にも同様に影響している。もしお店がもっとセキュリティ対策をしなければならない社会であれば、物の価格もそれに反映される。基本的には、安全で安心で信頼に基づく社会というものは、様々なコストを下げやすくしてくれていると思っている。

社会全体の信頼を維持し高めることは、自分の利益を考えた上でも自分自身に利益がある。そこには協力すべきだし、貢献すべきだ。それはモラルではなく、実際的な理由でもそうだと思っている。だから「無敵の人」のような人をできるだけ生まないようにすることは重要だと思う。一方で、運に恵まれなかった人もきっといて、すべての人を救えるのかというのはよくわからないし、そのためにどのくらい分配すべきなのかということもよくわからない。そして、マイケル・サンデルはそこについては、少なくとも私が読んだ本の中では言及していないと思う。

そこについて彼が整理して言及してくれたことはすごく良い。実際のところ、みんなそこまでは納得だと思うのだけれども、結局のところどういうラインで合意するのかという実践の部分が非常に難しい。数字にすぐ表れないとしても、どのように合意形成をするのか。そして、共同体に分け与えるとすると、そもそも共同体とはどこまでなのかという話もある。この共同体の範囲をどうみなすのかは、これもまた非常に合意形成が難しい議論だと思う。もう少し学びたい気持ちもある。

そのようなよくわからない、普段しないような話をしてしまって、少しメタな話になるけれども、最近試しているのは、エッセイをいきなり書き始めるのではなく、まずは「今日は何を話そうかな」みたいなところから始まり、「こういうことが気になってるんだよね」と言って、ChatGPTと一緒にそれについて掘り下げる対話をするということ。そして対話した後に、それを改めて自分の文章にしてみるという試みだ。これは、うろ覚えで何かを話すよりは多少良い気がするが、もちろんそこにはハルシネーションがある可能性もあり、完全に裏取りしているわけではないので、そのまま信じて書いてしまっている可能性もある。しかし、そもそも自分がうろ覚えで間違っていることもあり、それを毎回裏取りしているわけではないので、その点では変わらない。むしろ、ハルシネーションがあったとしても、マシになっているのではないかとすら思う。そのくらい、自分自身の記憶やその正しさをあまり当てにしていないというのはあるのかもしれない。

2025-08-11

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