書く実験の記録

#724 手のひらの中の一億件

最近、自分の人生について「物理的な限界を導入する」ということについて、よく考えている。

デジタルのものがどれだけスマートに動いて、そして複製可能で、大量の――それこそ本当に無限ではないけれども無限だと感じてしまうような、一人の人間にとっては無限だと感じてしまうような――データ量を保持できること、そしてそれをいつでもどこでも取り出せるということがあったとしても、一人の人間というものについては非常に物理的な存在である、物理的な存在であった、物理的な限界である、限界を備えた存在であるということにぶち当たっていて、そこにキャップがあるのではないかということを、最近よく考えるわけだ。

これは、たとえばToDoリストについて考えてみても、デジタル上のToDoリストには際限がない。それこそToDoリスト程度のデータ量であれば、1つのレコードあたりの、1つのToDoあたりのデータ量というものは知れているわけだから、それが1万であろうが10万であろうが1億であろうが、言ってみたら「人間が何かを行うということのためのToDoリスト」としては、もはや無限だと思えるような際限がない数量のToDoを書き込むことができる、そして管理することができる。

本当に「管理下に置けているか」、その1億もToDoがあった時に、それをきちんと管理できていると言えるのかどうかという問題はあるけれども、たとえば1億個のToDoを書き込んだ紙があったとしたら、それは全く持ち歩けないか、ずっと家に置いてあるのか何かわからないが、まあそういった物理的な、何か巨大でとても扱いづらいものになるだろうし、そういったものに比べれば、おそらくデジタルに1億個のToDoがあったとしても、それを――まあなんだろうな――なくさずに持ち歩くことができてしまう。そして閲覧することができてしまう。なんなら検索とかもできるし。

ということを考えると、まあ紙に比べれば多少は「管理できている」と言っていいだろう。この「管理」という言葉については、明らかに何か別のもっと良い言葉があると思っている。

そのToDoを行おうとした場合にも、ToDoは1億個あったとしても、それを実行できる人間というものは「自分という存在」一人しかいなくて――まあこれはもちろん誰かにお願いするとかね、そういったことはあるし――たとえばだが、ToDoは結局解像度による。その一つ一つのToDoの解像度によるので、まあたとえば「大阪万博を行う」というようなToDoは、それは一つだけれども、当然そこには分解していけば膨大な人間が、膨大な作業・タスクを行って、今の大阪万博は実施されているわけだから、少なくともそのオープンまでのToDoというものを可視化しても、それは1億ではくだらないかもしれない。

もちろんこれは本当に、先ほども言ったように「解像度による」んだけどね。

そうやって膨大なタスクというものを行って、何か大きなものを成し遂げるということは本当に素晴らしいことだし、本当に尊いことだし、しかしやはり一人一人の人間がやれることというものには物理的な限界があって、だからたとえば全体のタスクを管理すると言っても、「大阪万博を成し遂げる」ということについて、その手にまつわるすべてのことを一つのToDoリストで――それがデジタルにしろアナログにしろ――それを管理するということはおそらく不可能だし、もちろん実際にそんなことはしていないはずだ。

だからここで考えるべきは、何だろうな……デジタルデータが無限で無期限に存在できてしまう――一応書いておくが、これは本当に無限でもないし、本当に無期限でもないんだけれども――それはもちろんわかっているんだけれども、何か自分という人間の有限性に対して考える時に、そのように感じてしまうということだ。

とにかく、そういったものの、そこにギャップがすごくあって、だから適切にやっぱりアナログの限界みたいなものを導入した方がいいのではないかということを、最近考えてるっていう話だな。

2025-08-15

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