書く実験の記録

#728 なぜをめぐる距離感

何かがうまくいかない時に、「なぜうまくいかないのだろう」と考えてしまうのは当たり前のことだと思っていた。けれども、ふと自分の周りを見ると――ある問題に対処する時にいろんなアプローチがある中で、「なぜ」と問わない、もしくは「そうだ」などと受け入れる、どのくらいそのことに問いを立てるのかについては非常に人によって違う。

それは知性の問題ではなく、問題解決のアプローチとしてそれぞれ大きく違っていて、どちらにも良い時も悪い時もある。何が「うまくいく」のかということも含め、そういったことに気づいた瞬間があった。

例えば、今何かの問題が発生している。まだ誰が原因なのかわからない問題や、明らかに誰かが何かできていないと分かる場合もある。その時に、もちろん個人に原因を押し付けるのではなく、「なぜそうなっているのか」「なぜその問題が発生したのか」ということに興味が湧き、問いたくなる。

担当者に「なぜそれが発生したと考えているのか」と聞きたくなるし、自分がその立場なら「なぜなのか」と考えてみたくなる。

ただ、どのくらい掘り下げるのかがポイントだ。あまりにも深く掘り下げすぎても意味がない時もある。例えば、Aという問題が発生し、Bという対応をするといった明確な因果関係がある場合、その2つだけで完結する時もある。

しかし、多くの場合、もう1つ考えるべきことがあって、「なぜそうなったと思っているのか」という問いが重要になる。

例えば、「毎朝ご飯が食べられない。だから食べられるようにする」というのは解決策になっておらず、「なぜ朝ご飯が食べられないのか」を考える必要がある。より複雑な問題であれば、原因が直感的ではないこともある。

たとえば「会社の売り上げが下がっています。だから営業を頑張ります」と言われた時、「そもそも売り上げが下がった原因は何だと思っているのか? それを踏まえて営業という解を導き出したのか?」という点が気になる。営業を増やすという対応自体は否定しないが、根拠が重要だ。

間違ってはいない。ただ、結局のところ、原因がわからないこともある。これが例えば飛行機事故のように人命が関わる問題なら、徹底的に原因を追求し、安全性を高めるための努力は必要で、それは間違いではない。

だが、プライベートなことやビジネス上のことで、人命が関わらないような問題の場合は、そこまで徹底して原因を追求しなくても良いケースもある。

書いていて思うが、「重大かどうか」という線引き自体が曖昧だという気持ちもある。ただ、それは一旦脇に置いておくとして、いずれにしても、すべてのケースで徹底的に時間とリソースを使って原因を追求すべきとは限らず、どこかで切り上げる判断も必要だと思っている。

2025-08-25

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