#744 合理と感情の判断

合理的に考えた時に A か B かで言うと、A の選択肢が適切であると判断することはある。しかし、なんとなく A の選択肢が間違っていないという気持ちがありつつも、うっすらと「いや、でも B でも良かったんじゃないかな」という気持ちがあったりする。
まあ、誰しもそういうことはある。誰しも何かを選んでいて、その時にそれ自体は仕方がないし良いとしても、それを合理的だと捉えるかどうかということは、もちろん直感的に判断する人もいれば、合理的に判断する人もいるだろう。そしてそれは人それぞれであり、その場面その場面によって異なる判断をし、異なる判断の仕方をするわけである。
そうは言っても、「この人はこういうケースではこういう判断の仕方をする」という傾向はやはりあるだろう。それは私自身であれば、「こういう時は合理的に判断したらこっちだよね」と考えるケースがあるからである。しかし、その「合理的」というものは、サイエンスのような厳密な実験や観察に基づくものではない限り、時に自分を慰めるため、もしくは自分の判断の正当性を自分に言い聞かせるため、自分を説得するために用いられることもあるのではないかと思う。
「合理的だ」という気持ちは、逆に言えば、それが発生している時点で、つまりそう考えてしまっている時点で、その判断には迷いがあることの現れである。そして感情面で言うと、その判断自体が実は「B の選択肢の方を選びたかった、選んでも良かったのかな」と思っているにもかかわらず、様々な理由や事情で A を選んだ、もしくは「合理的な判断である」と言い聞かせるようなことに使われている気がする。
つまり、それは「論理的であったり合理的であったりする」と自分に言い聞かせる場面が発生している時点で、その選択肢や選択を自分自身が 100% 迷いなく受け入れられている、選べている、というわけではないことを示している。そして同時に、結局それは科学的な事実ではない限り、人間というものの曖昧な部分に関わる以上、どちらにも論理や合理があると言えることも多いのではないか。例えばある人にとっては、結局どっちも合理的であり論理的である、というようなことがあるように思う。
しかし、ちなみにそもそもここでは「論理的」と「合理的」という言葉を、あまり区別せずに曖昧に使ってしまっているので、それについてはあまり良くない。
それはどちらも含まれているという意味では間違っていないし、まあむしろ「論理」とは語っている「論理的である」というのは、ロジックをきちんと持っているということである。しかし結局そのロジックというものは、どちらにも立てられることも多いし、最終的にはロジックを突き詰めても判断できないことがたくさんある。そして、そこにさらに「どちらが目的により合っているのか」という意味での合理的という判断があったとしても、結局それも不確実性があったり、さっき言ったような人間の曖昧な部分が関わってしまう。実際、日常生活や仕事などではそういうことが多い。結局、どちらにも合理性のようなものはあったりして、実は「合理的だったり論理的だ」と思っている判断こそ、非常に感情的な判断だったりすることもあるのだなと、自分自身に対して思ったことがきっかけでこれを書いている。
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