#755 人の寿命と、関係の寿命

人の関係性というものには終わりがある。強固な形であれば強さもあるが、終わる時は悪いし即決後で、ゆるい関係性であると逆にそちらの方がなくなることが少ない、というかなくならないということもある。ただしいろんな難しさはもちろんある。どちらがいいとかはないだろう。それに「そうだな」みたいなことを言うこともあるけれども、もちろんそんなことはなくて。
例えば、会社組織の寿命というものは、自分が死んでも続いていけるような、自分がいなくなっても離れても続いていけるような、というのが理想ではあるけれども、僕の場合、人間の寿命よりは短い。ほとんどの場合、人間が死ぬより会社の方が先に潰れる。それは人間の数十年という、100年近い時間というのはまあまあ長いということでもある。
もちろん、人が一人ずっと同じことに関わり続けるということは容易ではないし、一生同じ会社に勤め続けるとか、自分が作った会社を一生やる、自分の作った事業を一生やる、そういうことは美しいけれども、難しい部分もある。
人間には「物事に飽きる」という機能があって、これは私は一つの重要な機能だと思っているのだけれども、その機能は獲得されたものだと考えている。全ての持っているもの、特徴というものは、それがうまく働くものもうまく働かないものもあるけれども、いずれにしても「機能」であると捉えたくなる。しかし、これはニュアンスによっては批判をされてしまうような考え方だろう。つまり、たまたま偶然それが獲得されて残っただけのものに、それが必然であったというようなストーリーをつけすぎると、それは進化の話として科学的に間違っている。進化生物学の誤用であり、間違った使い方であり、間違った考え方であるということになるので、気をつけなくてはいけないところだ。
現実のことに触れることはあまりないんだけれども、試しにまあ触れてみると、この間トークイベントがあって、そこで少し出演させていただいて話す機会があった。運悪く4人の中で自分のマイクだけが壊れて、これは神様が「お前は喋りすぎだから喋るな」というようなことを言ってるのかもしれないと一瞬思ったけれども、まあめげずに喋った。
そして30分とか45分という時間は、準備をしている段階では「いや、長いし大丈夫かな」と思っていたけれども、実際には全く時間が足りなくて、もっとこの倍あっても、まあなんとか乗り切るのではないかというふうに思った。それは何より、そのやはりファシリテーションというか司会というか、流れを作ってくれる人のおかげであって、そういう流れを作ってくれる人がうまく話してくれると、何というか、無事なんとかなることができる。
しなくても対話が存在する場合もあるし、しない場合もある。つまり、出演者同士の掛け合いになるのか、それとも司会者が順番に振っていって順番に何かを話すという形式になるのか、その辺はどちらも別に間違いではない。
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