書く実験の記録

#773 ストーリー

ストーリーは必ずしも人の繋がりから生まれるわけではないけれども、人との繋がりには多くの場合、ストーリーのようなものが大きく影響を与えているというように思うことがある。

特に、何の用事もないけれども、何の目的もないけれども、なんとなくご飯を食べに行くというようなことができる──「なんとなく別に用事はないけれどもご飯を食べに行こうよ」と誘える友人というものは一定数いて、それはとてもありがたいものだ。

仕事であるとか、もしくはその仕事の関係者というものとの関係性、信頼できる仲間というものも非常に価値がある。個人的には、一人で仕事をするというよりも、みんなで何かをする方が好きなタイプなので、それもそれで非常に貴重だ。

しかし、そういう「何かを一緒に成し遂げよう」ということではなく、もしくは「何かを生み出そう」ということでもなく、いわゆる生産性のようなものが何もない──そういうものは何もないけれども、たまに会ってどうでもいい話をする。逆に言うと、生産性とかそういったものを求めなくていい関係性というものがあって、それはやはりとてもありがたい。

しかし、そういったものはたくさんはない。もちろんこれは人によると思うから、あくまでも私自身の話ということになるけれども、そういった関係性をたくさん持つのは苦手だ。逆に言うと、何かやはり人と共に働き、ともに動くというためにはストーリーは必要なのだなと思うことは多々ある。

その手段としての存在が許されなくなる──というか、許されなくなるわけではないのだけれども、手段が機械に代替されていく。手段であり続けることが人間に許されなくなっていくとするならば、人に残るものは「手段」ではなく「目的を提示すること」なのだろう。

しかし、今私はおかしなことを言っている自覚はあって、手段であるということが人に許されなくなってしまうとすると、それが機械になるとするならば、別に機械を動かすこと、計算機を動かすことには特にストーリーなどや共感などは必要がない。

じゃあその時に、そのような立場の人間に必要なものは、共感を引き出してチームをまとめるような力ということはもはや必要がなくて、単に「良き目的を設定すること」なのかもしれない。

しかし、その「良き目的」という時の「良い」というものは何なのかというと、単純にまず社会とか、まあ誰かとか、何でもいいのだけれども、それが絶対的な善悪で測ることができるという意味での「良い」ということだけではない。

人間と一緒に働く場合は、その関係者にとって「それが良いものである」と感じることができるかどうかが重要だ。どれだけ良いものが事実としてどれだけ良いものであったとしても、誰一人としてそれを良いものであると感じることができないとすれば、それはせっかくの良いものであったとしても、一緒に働いて何かを成し遂げることは非常に難しいだろう。

逆に言うと、それゆえに本質的に良いものでないとしても、「良いものである」という勘違いのようなものがまかり通り得るわけだ。けれども、大きな物語を人々に与えることができるという能力が、やはり大事になってくるのかもしれない。

それが良い結果をもたらすのかどうかは、わからないけれどもね。

2025-10-27

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です