#774 9999万9998人のことは見えない

何をしても何かが変わらないというような状態に陥ると、人は時に「学習性の気力」――つまり、何というのかな、「変わらない」ということを学んだ結果、「何をしても仕方がない」というような気持ちになり、無気力になってしまうことがある。
それは特に珍しいことではなく、小さなものであれば誰しもが日常で出会うことがあると思う。
逆に言うと、「何をしても何か変わらない」というものに対して、変わらずにずっとモチベーションを持ち続けることができるというのは稀有なことだ。
もっと言えば、もし小さなこと、というか本当に無意味なことにおいて諦めるということができない、つまり人間というものが「諦める」という機能を持っていないとしたら、おそらくその人間は――いや、人間というか、それは現代における誰か個人のことを指しているわけではなく、現代に至るまでの長い進化の過程の中に存在した多くの個体の一つという意味で言うけれども――その進化の過程のどこかに存在した個体というものがいて、もしどこかの川から魚を取ろうとしたとして、そこに魚がなかなか取れない、取ろうとしても取れないということがどれだけ続いても、永遠にそこで魚を取ろうとしてしまったりしたら、その個体はおそらく生き残ることはできないだろう。
だから、どこかで見切りをつける必要がやっぱりある。「この川からは魚は取れないのだ」という理解ならまだ良いのだけれども、「自分はこの川から魚を取る能力はないのだ」というように解釈してしまう場合もある。
そこには事実としての違いは多分ないけれども、内心としての違いは確かにある。しかし、結果として「魚を取れていない」という状態は同じである。
どちらの捉え方が良いのかというのは場面に応じて異なるだろう。
例えば、ある人は「自分自身に問題はないが、魚が取れないということはここに魚がいないのだ」という結論に至るかもしれない。
あるいは、「環境に問題はないけれども、自分にはその魚を取る能力がないのだ」と考える人もいるだろう。
まあ、これは「魚がいるかいないか」という話なので、よくよく考えてみれば、そこに魚の影や姿が見えるなら魚がいることは間違いない。
その上で魚が取れないとなると、どちらかといえば自らの方の問題になるわけだけれども、多くの場合はそんなに分かりやすくはない。
いろいろなものが可視化されてしまった時に、「自分には問題がなくて、環境に問題があるのだ」と考えたいところだが、実際には例えば他の誰か――その相手が魚を取れていたとしたら、それはやはり自分の問題ということになってしまう。
そこに1億人いれば、その中で1人だけ取れていたとしたら、自分は魚を取れていない1億人のうちの9999万9999人の中の1人である、ということになる。
残念だけれども、そこで納得してしまうかもしれない。
そういう意味で言うと、ネット社会、もっと言えばSNSの問題点というのは、「その1億人」という存在が目に入らないということかもしれない。
なぜなら、本当はそこに1億人いて、その中の1人だけが魚を取れている。魚を取れない人の方がむしろ一般的な傾向を示しているのだが、取れる方が「外れ値」なのである。
しかし、SNS上ではその1億人は目に入らず、魚を取れている人がいわゆるインプレッションを稼いでしまう。
そして、それ以外の全く取れていない人間たちはほとんど出てこない。
物理的に人間がいる場合は、あくまでも1億分の1として「魚が取れている」ということが見て取れる。
だが、SNS上では1億人の中に1人だけ魚を取れていたとしても、その画面上に出てくるのはその1人であり、それは1億分の1ではなく、もっと高い確率で自分のタイムラインに現れる。
そうすると、自分というものは、魚を取れている1人以外の9999万9998人のことがあまり目に入らず、自分とその魚を取れている1人だけを比較して落ち込んでしまうのかもしれない。
そして、自分もきっとそういうことはあるだろうと思う。
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