書く実験の記録

#776 今日はいい天気ですね

今日はいい天気ですね。私は、何かテスト的にも事実を入れたりとか、テスト的に音声を発する必要がある時に、ついついそういう癖がある。これはどこから来たのかはよくわからない。

「今日はいい天気ですね」というのは「月が綺麗ですね」というのと違って、そこに込められた文脈はない。深い意味もないと思っている。まあ、私が知らないだけかもしれないけれども。

この間、とても日差しが暖かくて、ある町屋の縁側にいたんだけれども、その時すごく眠くなって、「この日差しの暖かさというのはとても幸せなものだな」と思った。あの斜めに伸びる日の光の感じと、その縁側から見える庭と和室というのは、それがきちんと清潔なものであれば、とても良いものだ。

しかし一方で、自分がじゃあ和室に住みたいかというと、正直言って今のところまだそういう気持ちはないし、この辺は年齢によるんだろうか。もっと年を取ったら和室に住みたくなるんだろうか。

実は今住んでいる家にも和室はあるのだが、その部屋は完全に物置になっている。思い入れがあるかどうかということで言うと、考えてみたらどうしても物を置きづらくなってしまったりするので、あまりそれを積極的に選びたいわけではないように思っている。

話は変わるけれども、なんだろう、何というか、先月自分が持っていたことと今月自分が持っていることが違うなということは、やっぱりある。むしろ、何か自分が安定して、最近ずっと同じやり方でうまくいっている、ストレスがなくできているというような時こそ、なんだか不安になる。

同じやり方ができているというのは、同じことをしているということかもしれないし、もちろんあらゆることに適用できる素晴らしい方法を見つけたのかもしれないけれども、多くの場合そんなものはない。少なくとも私はそう考えている。

そうすると、同じやり方で失敗なくやれている、ストレスなくやれている、何か調整が発生していないというのは、おそらく同じことをしているからだ。

そうは言っても、どこまで新しいことをするか、どこまで変えるのかというのは、人によってその「器」は違うと思っていて、この「器」というのは、人の器ということ。子供の頃は「何を言っているんだろう」とあまりよくわかっていなかったけれども、大人になってみると、やはり器というものはあるなと思っている。

そしてこれは努力によって、もしくは何かのきっかけによって大きさが変化することはできるけれども、そもそもその大きさによって行動が制約されるというか、考え方が制約されるというか、大きく違う道を歩むような気がする。

これは一つのことだけではなくて、さっき言ったような新しいものをストレスや変化としてどれだけ耐えるのか、どこまでそれを受け入れるのかということもあるし、もしくはどこまでを自分ごと化するのか、どこまでを自分の範疇、自分が認識するものだとするのか、みたいなところも人によって大きく違う。

それはある種、自分というものを曖昧にすることかもしれないけれども、自分というものを広い範囲で捉える、自分のことだと思うことを記録する。これはまあ、「自他境界」が曖昧である——誤変換がひどいねこれはね。「自分と他人の境界が曖昧である」というようなことで言うと、それはあまり良くない文脈で語られるんだけれども。

例えば、大きな会社の代表として舵取りをしているとして、もしくはもっと広く社会一般全般に対してやると考えるようなことができるかどうかというのと、あくまで一個人として何かを突き詰めていくというのは、それがどちらが良いかということではないにしろ、そこにはやはり違いというものがある。

どちらもそれはそれで強い生き方、良い社会との関わり方というものはあるし、どちらが良いとか悪いとか言うわけではない。しかし、そこには大きな生き方の違いというものが結果として現れるし、大きな選択の違いというものがあると思っている。

2025-11-01

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