書く実験の記録

#777 100年動くもの/良い人間

人間は10歳といえば「まだまだ若いな」と思うし、20歳・30歳も「まだまだ若いなあ」と思う。しかし、これが90歳ともなれば「もう年寄りだな」と思うし、歳を取って体が動かなくなってくるということは、それは本人にとっても周りにとっても、もちろん悲しいことだ。
けれども、よく考えてみると──いや、別によく考えなくてもいいんだけれども──100歳ともなると、それは「100年間機能している」ということになる。人間は機械ではないけれども、何かの仕組み、自立的に動く何かの構造だとすると、例えば100年間それが動いているというのは、驚くべきことだなと思う。

自分が作ったものが100年後もきちんと動いているとは全然思えないし、それはたとえ10年後であっても、10年後もきちんと動いているかどうかというのは本当に分からないなと思う。そういう意味では、人間は10年というもの──若いうちは10年、20年、30年という時間を当然「その時も自分は機能している」と思っている。
そしてまあ、統計的には多くの場合それは事実なのだけれども、人間であるとか、もちろん生物そのものも、あれほど複雑な仕組みでありながら何十年もきちんと動くというのは、本当に感心させられることだなと思うわけだ。

同時に、自分が作ったものは10年後に動いているという自信がないことを考えると、10年も経てばどこか調子が悪くなっても仕方がない。それがましてや100年も経ってなお動いているとしたら、それは奇跡的で感動的なことだ。たとえあちこち調子が悪くなっていたとしても、動いていること自体に深い驚きと敬意を覚える。

ところで、「良い人間であろうと思う」とはどういうことだろうか。
私自身、よくそう思うし、実際にはあまりできていないのだけれども、「もっとあの場面で良い言葉遣いがあったのではないか」とか、「もっと良い言い方があったのではないか」とか、そういうことをよく考える。言葉も行動もそうだ。

特にオンラインのコミュニケーションが主流になってからは、表情を見せる機会が減ってしまった。だから、言葉もしくは行動で何かを示すしかない。そしてその行動というのも、またオンライン上で伝えるしかないわけだ。
その非常に限られた表現力の中で、いかに相手を不快にさせないか、良い人間でいられるかということに苦心するわけだ。

しかし、改めて考えてみよう。「良い人間」とは何だろうか。自分は良い人間なのだろうか。自分が「良い人間だ」と思っているとき、それは誰かにとっても良い人間なのだろうか。
また、誰かにとって良い人間だとしても、別の誰かにとっても良い人間だとは限らない。すべての人にとって良い人間であるなんてことは、当然ながら限りなく難しい。

そのようなことを望むのは「全知全能になりたい」と思うようなもので、基本的には無理だ。
それでも、より多くの人に好かれたい、より多くの人に「良い人間」と思われたいという願いは、たぶん誰しもが抱く抜けがたいものだろう。

一方で、それは「少なければ少ないほどいい」ということでもない。より多くの人間に尊敬を集め、好かれているということは、それ自体で立派で、稀有なことだ。
この「多い・少ない」という単純な指標の間にある微妙な何か──そのニュアンスを今、説明しようとしてもうまく言葉にならないように思う。

つまり、結果として「多ければ多いほどいい」とは言えないまでも、それ自体は意義のあることだ。しかし、一方で「多い」ということ自体を指標にしてしまうことには問題もあるのだろう。もちろん、「少ないほどいい」ということでもない。

特に何かのプロジェクトを進行するにあたっては、それがスムーズに進む、チームがうまく機能するということが重要で、そこでは必ずしも「良い人間であること」が「良い人格であること」と直結しない。
むしろ、そこに関係がなくてもいいのかもしれない。

もし誰かにとって、あるいは自分にとって何かを偽っていたとしても、それがプロジェクトのために人間関係を良好に保ち、結果としてうまくいくのなら、それもまた一つのあり方だ。

とはいえ、八方美人的でなく、時には面倒くさいことを言ったり、わがままだなと思われたり、やんちゃにかき回したりすることが、良い効果をもたらすこともある。
この「振る舞い」について、私は今もなお自分の中で答えを見つけられていない。

2025-11-03

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