#787 どこまでを「自分ごと」として見渡せるか

いつからか ChatGPT の入力が、例えば入力欄のところにテキストが残ったまま別のタブを開いて、また ChatGPT を開くと新しいウィンドウとして新しい入力として扱いたい場合でも入力が共有されている場合がある。
そのため、別の命令を同時並行でやりたいにもかかわらず、それらが混在してしまうことがあり、そのことは良い場合もあるし、あまり良くない場合もある。
今日は音声認識の精度が非常に低い。なぜだろうか。
人は何かのプロフェッショナルにどんどんなっていくと昔は思っていたけれども、必ずしもそうではないのかもしれないと思っている。
これは「必ずそうではない」ということでもないし「必ずそうである」ということでもないし、あくまでも「必ずしもそうではないのかもしれない」というだけなので、非常に当たり前のことを言っているだけなのだけれども、そうなっていく人もいるし、そうではない人もいる。
そしてこれは単に停滞しているという話ではなくて、どんどん深く掘っていく人と、どんどん横に広く掘っていく人、もしくはその深く掘っていく人とのつながりを増やしていく人、つまりまあ平たく言うとプロデューサーだね、プロデューサーみたいな人と、やっぱり個別のプロフェッショナルみたいな人というのがいて、どちらも面白さがあるし、どちらも必要なことだ。
これはこの後別の考え方を試みるけれども、一旦考えてみると人はやっぱり目的を求めている。
それは大きな目的でもいいし小さな目的でもいいし、そしてそれは必ずしも「目的」という言葉が完全に当てはまるというものでもない。
例えば、何かを作る人は何かを作ることが好きな場合もあるし、ただ仲間と一緒に仕事をするのが好きな場合もある。
そしてその方法が何かを作ることである場合もあるし、もちろんそれは両方好きなことであるということが一番多いだろう。
だからもちろん物を作るという行為自体も好きなんだけれども、結局は誰かのため、しかしお客さんのためというものはもちろんある。実際に使ってくれる誰かのためというものももちろんあるのだけれども、やっぱりその過程には、そのプロセスには、制作チームの、例えばだけれどもそのチームの他のメンバーが好きであるとか、このプロデューサーのためであれば頑張れるよねとか、この企画のためだったらまあ面白そうだし頑張れるよねとか、そういうものはやっぱりある。
そしてつまり自由度と自己効力感というか、この自己効力感というものは最近私の中でよく登場するキーワードだけれども、自分には自分自身でもやりたいことがあるし、それには他者にとっても意義があると感じているし、またそれは自分が頑張れば成し遂げることができること、というようなちょうどいいバランスが存在する時に、人はやっぱり一番力を発揮するし、一番能動的に動けるように思う。
だからそれがその人の器というもの——よく「器」という言葉が使われるけれども——この器というものは、どこまでを自分ごととして考えられるかという才能であり視座の話かなと思っていて、例えば私はさすがに地球全体というものを自分ごと化して心配して考えるということは正直できているとは思えないし、なんなら日本全体のことを自分ごと化して考えられることもできていないだろう。
しかし例えば、日本のトップになるような政治家、つまり日本国の首相のようになる人には、そういう性格が求められる、そういう才覚が求められるだろうし、それは例えば家庭のことであったり自分自身のことであったり、会社のことであったり部署のことであったり、もしくは地域のことであったり、もしくはインターネット上のコミュニティのことであったりする。
どれも別に正しいか正しくないかということを議論するつもりはないし、別にそのようにも思っていないし、大きければ大きいほどいいわけではない。
それぞれにそれぞれの見える範囲、見通せる範囲というものがあって、高いところに登れば登った分だけ広く遠くまで見通せるように、やはり視座というものとどこまで見通せるかという範囲というものは当然関係があるように思う。
そしてそれがまた、どこまでを自分ごと化して考えることができるのかということと直結しているかどうかというものは考える余地があると思うが、どこまでの範囲に心を痛めることができるのか、どこまでの範囲にコミットしたいと思えるのかというのは、「頑張るか頑張らないか」みたいな話ではなくて、そもそもそのように捉えることができる人とできない人がいて、それは自分自身に対しても思うし——。
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