#792 白湯と射程

あれをすると健康になる、これをすると健康に悪い──それが民間伝承レベルのものもあるし、経験でなんとなくあるけれどと思っているものもあるし、医学的にちゃんと証明されているものもある。まあ、こういう研究成果がある、こういう実験結果があるというレベルのものもある。それぞれ信憑性も違う。しかし、信憑性が低いものが必ずしも間違っているわけでもない。
それが陰謀論や疑似科学につながってしまって、人に迷惑をかけてしまったり、自分の人生に悪い影響を与えてしまったりするのは良くないけれども、例えば毎朝起きた後、とりあえず温かい飲み物を飲む、白湯を作って飲むようにしている。別に嫌々飲んでいるわけではなく、それなりに美味しいと感じているし、それが非常に体に良いという医学的な根拠を持っているわけではないのだけれども、あくまで民間の噂話というレベル、もしくは自分自身の経験というレベルでは、まあなんか体に良さそうな気がする。
そして、もしそれらの話が間違っていたとしても、少なくとも温かい水を飲むということ自体が非常に体に悪いということはおそらくないと思っている。いや、もしこれが今後「実はそれはすごく体に悪い行為だったんだ」ということがわかるかもしれないし、科学というものは常に覆される可能性を秘めているものではあるので、実はそれはすごく体に悪いことだったんだっていつか僕が気づいてしまう、あるいはそういう話が出てきてそれにびっくりして落ち込んでしまう可能性もある。
けれども、現時点では私はその可能性がない方にかけている。まあ、かけているというほど深く考えているわけではなく、「なんとなく、少なくとも体に悪いことはないだろう」と思って朝お湯を飲んでいるのである。今まさにこれを書きながら横にはコップがあるわけだ。
こういったものというのは他にもいろいろあって、そしてもちろん程度が様々である。例えば私は普段はお酒は飲まない。というか、普段というか、一滴でも飲むと大変なことになるというわけではなく、よほど差し迫った状況であれば飲まないことはないのだけれども、実際そういうシーンはなくて、おそらく結構な期間お酒を飲んでいないと思っている。
これはこれで今まで何度も文章に書いてきたことがあるのだけれども、お酒を飲むということ、飲まないということ、それはすなわち酔っ払う・酔っ払わない、誰かと酔っ払う・酔っ払わない、誰かは酔っ払っているけれど自分は酔っ払わない──など、様々なことで問題があるとまでは言えないけれど、まあ支障がある。失うものがないわけではない。
大津の科学的な話ではなくて、科学的な話を置いておいて言うと、お湯はなんとなく美味しいと思っていて好きなのだけれど、実はお酒はあまり美味しいと思えない。それは多分、個人の趣味嗜好というものもあるし、体に合う合わないというものもあるし、まず趣味嗜好というレベルでそんなに求めていないということになるのだろう。
そして、それ以外にも健康に良いとか悪いとか、ちょっとだったら健康にとか、まあいろんな話がある。水を飲む・お湯を飲むということよりは、もう少し健康に影響があるとかないとかという話は、実際に水を飲むということに比べると影響があるということは確実で、それが良い影響なのか悪い影響なのかは様々である。様々な研究もある。しかし、何かしらの良し悪しの影響はあるわけだ。
そしてより話の射程を伸ばしてみると、その射程というものは物理的な射程を伸ばすこともあれば、概念的な射程を伸ばすこともあるし、時間的なスケールを伸ばしてみることもある。
例えば物理的な射程を伸ばすという意味で言うと、はるか遠い土地のことを考えてみるとか、遠い土地の場合のこと、もしくは物理的に全く離れた場所にあるもの、自分とは遠いものについて考えてみるということもあるだろう。
概念としては、例えばりんごとバナナは果物だから近いかもしれないけれど、りんごと自動車はバナナよりは遠いだろう。そういう概念的な距離。これはまさに今の大規模言語モデルで知られるようになった「ベクトル化」の概念だよね。僕もりんごとバナナと自動車がどこの座標にあるかをそらんじられるわけではないし、おそらくそんな人はいない。それでも概念として、りんごとバナナよりもりんごと自動車のほうが遠いということは、おそらく間違っていない。
テクニカルな話は置いておくとしても、実際に人間が考える概念としても、それは遠くにある。そのように遠くにある概念に結びつけてみるということもあるだろう。
時間的なスケールを伸ばして考えてみるという点では、例えば私が今お酒を飲む、お水を飲むことが身体に影響があるかどうかを考えた場合、お湯を飲むみたいなことであれば、体が少し温まった感じがする。測っていないからわからないけれども、実際温まっているとは思う。その「温まる」というわけだね。
で、お酒を飲むと酔うという変化が起きる。それは割と時間的にすぐ起きる話である。より時間的なスケールを伸ばすと、自分自身の先の人生や数十年先、もっと先、数百年、人間という種がどうなるか、あるいは私という個体とつながっていない人間という種全体に何が起きるか──そういったことも考えられるだろう。
さらにもっと時間的な先を見ると、人間という種は存在しないかもしれない。そういった様々な意味でスケールを変えて考えてみることもあるだろう。
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