書く実験の記録

#795 年末にしては、よくわからないことばかり

何かを書き出そうとして、今年は色々なことがあった、いいこともあったしやろうとしてできたこともあるし、思わぬ幸運というよりは人の助けによって得られたものもあるし、逆に人によってあまり良くない目にあったこともある、などと書きたくなるのは年末のよくないところだ。

年の終わりなので仕方のないことだし、一度二度くらいはよいが、問題はそれが多すぎることだろう。何かを書こうとした途端そのことが頭をよぎるのだ。それに今年のうちにやっておかないといけないことはたくさんあって、のんびり感傷に浸っている余裕などないのである。と思うが、そもそもその「今年のうちにやっておかなくてはいけない」っていうのはなんなんだろうか。

私たちは日々何かをやっている。まあ「やってない人もいる」と言いたい人もいるだろうが、まあその基準は人それぞれだ。働いている人もいれば、遊んでいる人もいれば、ただのんびりとしている人もいるだろうし、不運にも病気や怪我に見舞われてしまって休んでいる人もいるだろう。とはいえ、それはそれぞれみんな何かしているのだ。そして他人のことがわかるかどうかということも最近考えるきっかけがあって、例えば私は結構忘れっぽいところがあるのだが、その私はその忘れっぽさを譬え話とか過去のエピソードとかで話すことはできるし、もしくはきちんと実験をすれば、例えば傘を何回のうち何回置き忘れるかとか、まあその実験は難しいのではとは思うのでこれは適当だけれども、とにかく何かしらデータを取ることはできるだろう。しかし本質的に私の忘れっぽいことについて、忘れっぽさについて、誰かが理解することはできない。私もまた、誰かの何かを本当に理解することはできない。

まあそもそも「理解」とか、もしくは「共感」とか「わかる」とか、この言葉が難しい。何が何を指しているのか、それ次第で変わる。だから変わらない基準が欲しい。しかし確実に言えることは、これもまた言葉ではあるのだが、100%というものはない。理解なのか共感なのかわかるなのか、そのいずれにしても、100%理解できることはないし、100%共感できることはないし、100%わかることもない。基本的に何もわからない、と言ってしまうとそうではないと思うが、しかしまあわからないのである。わかろうと必死になるけれども、基本的にわかることはないのだ。

まあもしかしたらそのうち脳をなんかいい感じにする技術というかテクノロジーが開発されたら、なんかいい感じになって100%わかるのかもしれないけど、それにしたって例え100%の精度で追体験したとして、それは追体験であるというメタ認知がある限り同じものではないし、それまでの経験や知識も違うし、であればそれは違うものだ。しかし私はわかろうとしていた時期があったように思う。というと今はそうじゃないみたいな感じだしなんか劇的な感じだけれども、別にそういうことではなくて、単なる波の話というかその程度だけれども、ある時期の私は今の私より他人を理解しようとしていたように思う。いやもっといえば自分自身というものもまた、その理解しようとする対象にしていたように思う。そして今はその頃よりはそれらについて少し興味を失っているという言い方は違うけれども、まあなんか、あまり積極的だったり興味を持っていたり行動していたりしていないなと思うのだ。

2025-12-08

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