#455 言葉と人間と未来の曖昧な境界

それにしても前回の記事——いや記事っていつも書いているがこれは合ってるんだろうか、ニュアンス的に、なんとなく記事は違う気がしているが、そう思って調べてみた。
記事とは「事実を記す」ことだ。うん、確かに字面からもそれが読み取れる。記す、という部分には齟齬はないだろう。乖離はないだろう。しかし前半の「事実を」ということについてはどうだろうか。
迷うことなくNOである。全く違う。別に事実ばかりを書いているわけではないしね。ということで記事ではないね。今後は記事と呼称するのをやめよう。
もっと特定の意味のないもの——そういえば最近そんなこと書いたな——はなんだろうか。そういう単語はなんだろうか。ポスト、エントリ、あたりが該当するだろうか。外来語に頼るというのはこういう時には良い場合もある。日本語としての意味を持たないものもあるからだ。
日本語としての意味を持たないという表現はややよくわからない。日本語じゃないんだから日本語としての意味を持たないのは当然だ。そうではなくて、その言葉自体は英語として意味を持っているし、英語というか外国語として意味を持っているし、日本人としても翻訳や外国語学習を通して意味を知っているが、しかしネイティブではないがゆえに積み重ねた微妙なニュアンスはないというか。
まあそういう意味では前にも書いた気がするが「文字列」とかでいいのかもしれない。この文字列。つまり「書く実験の記録」は「出力された文字列」または「文字列を出力する実験の記録」だ。
前回の文字列では——いや、やっぱりこの書き方はよくわからなくないか?わからなさすぎるんじゃないか。前回のポスト、うん、このくらいにしておこう。
前回のポストでは、しかし、いや前回だったかどうか忘れたけれども、人間とは根本的に予測も理解も不可能なノイズの塊である、という人間観に触れた。これはあらゆる論理の放棄であり、これを他者に当てはめることや、自分に当てはめることが必ずしも良い結果をもたらす気があまりしていない。
何か根本的な問題を引き起こしてしまうのではないかという気持ちがある。予感がする。しかし、そう考えた方が、今抱えているストレス、というか課題というか、まあなんだ、人間関係の悩みについては——と書くと何か自分が人間関係にひどく悩んでいるようだが、それもちょっと違うのだけどまあ一旦いいとして——解決するのかもしれない。
いや解決ですらない。諦めである。わからない。理解の放棄。うーん気持ちは楽になるけどやはり解決にならないどころか、新しい問題を引き起こす予感しかしない。
ほんでまあ、なんだっけ、何かを書こうとしたんだけどなんだったか——あ、思い出した、そうそう、予測不可能なノイズの塊、として捉えるといったが、それはそれで完全にそういうものだとすると、自己の一貫性とか、まあもっといえば日常生活や、ある程度の期間の関わりが必要な仕事、などは不可能ということになる。
もちろんそんなことはないので、完全なノイズの塊、という理解はおそらくうまくない。なんらかのロジックは備えているが、そこは理解し得ぬもので——その「理解し得ぬ」とういところに、そのために、乱数が備わっていると考えると楽なんだよな。
うーん、ランダムな存在だと思うというよりは、予測をしないということか?いやしかし、予測をすることを一切やめるというのは、反応的に対人関係を扱うということだ。
予測はするが期待はしないということ。この辺なのかな。予測は外れるものである。外れることも含めて予測するというか。計画するというか。
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