書く実験の記録

#461 人類の時間感覚とその価値の変遷

毎日続けていた、と言っても50日くらいにやっと達したところだったか、英会話アプリの学習連続記録が途切れてしまった。うっかりやるのを忘れていたのだ。

通知も出してくれている気がするが、何せ普段は通知で集中を切らしたくなくて、macの集中モードにしていることが多く、というかほとんどだったりして、外から電話がかかってきた時によく、繋がらないんですけど、って怒られたりする。すみません。

25分間の集中と5分間の休憩を繰り返す方式を使っているが、25分というのは本当に短いと感じる。そして25分が短いとすると、短いな〜と感じることの繰り返しで1日が終わるので、短いな〜という感想が残る。

短いな〜と感じる1日の繰り返しで一ヶ月が終わるので、一ヶ月も、短いな〜という感想が残る。そう言ったことの繰り返しで、年月というのはあっという間に経過していく。本当に困ったものだ。

人間が1日というリズムに囚われているのは、考えてみたら面白い。身体がそのようにできているからであり、しかしまたその1日というものそのものは自分の体の中にあるわけではなく、取り巻く環境の方にある。環境の方にこそある。元々。

そのような環境で長い長い年月を経た結果、その環境で最も繁殖に成功したのがこのバイオリズムだったということになる。他の無数の可能性もあったのだろうし、その中にはより何か別の側面では優れたバイオリズムもあったのかもしれないが、結果としては今の人間が持っているものが最も環境に適応したのだ。というような考え方になるだろう。

結局、長い目で見れば、個体における優劣や勝敗は誤差でしかない。どれだけある時点では優れているように見える個体でも、結局繁殖に成功しなければ、その優れているように見える形質は次の世代に残っていかない。

もちろん、何を価値とするかはさまざまであり、遺伝子を残さなかっとしても文化や何か他のものを残すことができて、それにも価値を認めることができる、というのは、人類は史上初めての、かどうかはわからないが、遺伝子の乗り物にすぎない、という役割、から逃れることができた種である、という言い回しを思いついた。

2024-08-18

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