書く実験の記録

#517 考える自分と書く自分

このテキストを書こうとするときにChromeのブックマークのフォルダにまとめて入っている必要なURLを一気に開く操作をしている。ブックマークフォルダに入っている順番に開くので、操作を行う、必要な順番に並ぶように、ブックマークフォルダの中の並び順も調整している。

長らく特にこの順番には変化はなかったのだけど、最近少し変えてみた。しかしどうもしっくりきていない気がするのでどうも調整が必要そうだ。そうやって非常に小さなことでも試して変えていくのは重要なことだと思っている。

でも本当にそうだろうか。みたいな論理展開が好きなんだな自分は、と思う。この「でも本当にそうだろうか」と書いている時は、その後に書く反対意見のようなものが思いついていてその接続を書いているわけではない。

むしろ何も思いついていないが、いや思いついていないどころかそこについてはまだ何も考え始めてもいない。順番としてはそうではないのだ。ただ、そこまでの流れのあとなんとなく、大きく別の展開をしたくなった。

そういう気持ちがあって、そのためにその接続がまず書かれる。書く。それからその次を考えるのだ。考えてもいないかもしれなくて、とにかくどのような文章が出てくるのかを楽しみにするのだ。

これはつまり、全体の展開を変えたいな、と思う自分と、その自分が手段として展開を行うような接続を書いて、そこまでは一つの自我というか存在だと思う。思考の主体だと思う。しかしその先に文章を書く存在というのは同じ自分ではない。

展開を考える自分というものが「こういう展開にしたらそのあと何が出てくるだろう」と思っているのに対して、書く自分が「そういう展開が来たなら続きに何を書こうかな」と考えるわけだ。二つの自分がいるのである。

そして今書いているこの文章も、「本当にそうだろうか」と書いたものの、書く自分というものが、順当な流れでそれまでの文章に対する反対の流れを書くことができなかったというか、パッと思いつくことができなかった。

仕方ないので、メタな展開にしたわけだ。反対意見を書く接続を書きつつ、そこからさらにメタに展開する。まあつまりこの場合のメタは逃げだったとは思う。そして多くの場合はメタは逃げの手の一つになってしまっているとは思う。

そうは言っても別に、逃げの手が悪いということをそれは意味しない。わけなんだけど。

2024-10-20

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