書く実験の記録

#545 誰しも何かに依存していてそれが判断に影響しているのではないだろうか

続けるということも難しいけれども続けられるようになった次に難しいのはやめるということだ.いつ辞めるのかというのはなかなか難しい判断になる.特に判断をせず止めてしまえばいいという気持ちもある.もちろんそれができる時はそうすればいいんじゃないか.

やめることが難しいものというのは身体的な依存性があるものというのがまず一つあるだろう.例えばアルコール依存症であったりとか薬物の依存症であったりとか他にもそういった有名な依存症でないとしても自分が何かもっと些細なものに依存してしまっているということを感じる瞬間はある.

自分は酒も飲まないしタバコも吸わない.ギャンブルもしない.だけど例えば白ご飯が好きだしカレーライスが好きだし甘いものも好きだ.時々無性に食べたくなる.我慢するとなかなか辛いものがある.

そうすると自分はこれに依存していないと言い切れるのかというのは不安になる.アルコール依存症と違うのは自分や周りへの被害が少ないことだ.自分に関して言えば例えば糖質を取りすぎたりとかするという意味ではお菓子を毎日食べてしまったりするのはよくないだろう.

しかしまあ毎日米を食べ過ぎたりしてもそれが過度の肥満などになって周りにこう世話をしてもらわなくてはいけなかったりとかそういうことになれば周りに迷惑をかけていることになるけれども多少米を食べ過ぎたくらいであれば代わりに迷惑をかけているわけではないだろう.

多少と自然に言っていたけれどもそういう意味で言うと別にアルコールだって一緒だろう.多少飲むぐらいであれば別に問題はない.多少食べるぐらいならもちろん問題はないお米もね.

多少とは何なんだろう.結局そこには問題がない程度のという注釈がつく.問題があれば多少ではないし問題がなければ多少ということになるんではないか.少なくとも暗黙のうちに自分はそういう風な意味を持ってその言葉を使ってしまっているのではないだろうか.

それはつまり意味が循環しているというか問題がないから多少であってだから多少であれば問題がないというのは何というのかこれを何という風に言えばいいのかわからないがおそらく適切な言葉があるんだろうがトートロジーのようなもののはちょっと違うかもしれないがまあなんかこの違和感というのは伝わるといいなと思っている.

それと同時に自分自身が抱えているそういう小さな依存症というかまあもしかしたら依存症という言葉をこういう風に気軽に使ってしまうのは良くないのかなと思っていてそれは明確にその何かしらの医学的な定義や機種みたいなものが基準みたいなものがあるのかなとは思うので実際に依存症であるという人に対しての配慮にかける発言かもしれないのでこれは訂正しておこう.

ということで依存症という風に言ってしまうのは適切ではないのかもしれないがとにかく実際にはやめようと思ってもやめることが難しいものというのは誰しもが何かしらあるような気がしていてそれは何だろうな食べるということであったりとか寝ることが好きな人とか起きられない人とかもいるだろうし良いものだとしても例えばやっぱり自分は何か仕事をしている瞬間でチームですごくいいものを作り上げられてるな今はっていう瞬間はすごくこう心が踊るものがあるし胸が熱くなる瞬間はある.

ピアノの発表会みたいなものに出たことが遠い昔にあってその時にすごくうまく引けた本番ですごくうまくピアノを弾くことができたあの瞬間というものの何というかこれは言葉にどう表せばいいのかわからないけれども喜びというのもちょっと違うし楽しさというのもちょっと違うしテンションが上がるというのもちょっと軽い気がするが何かもっとこう熱い込み上げるようなものというあの体験というのはおそらく今でも記憶に残っているぐらいだからそれは何かこうそれを求めてやまない部分っていうものはあるのだろうしそれに身を焼かれているというのは何かにこだわってしまっているという意味では何かそれによって判断を間違ってしまっている瞬間例えばお酒は飲まなければいいのに飲んでしまうのが依存症だろうしお菓子は食べない方がいいタイミングなのについつい食べてしまうのもそれは依存をしているということができるだろうし本当はそういう何かやりがいというかこう湧き上がるような高。ようなそういう何かを達成した瞬間みたいなものを求めなければもっと淡々と冷静に仕事というものとして捉えることはできたそういう判断をすることができたかもしれない瞬間というものはもしかしたらあるのかもしれないけれども例えば過去にやったそういう何かうまくいった成功体験であるとか誰かと仕事をしていてすごくまあ大変だったけれどもすごくいいものができたと思っているしやりがいもったスチームの一体感持ったみたいなそういういい仕事いい仕事ができたなという記憶というものは良くも悪くも人というものを束縛し続けている拘束し続けているなと思うしそれが何か判断に影響を与えてるということはそれは自分は結局それに依存してしまっているということを否定しきれないのではないかなと感じる瞬間はある.

2024-12-03

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