#551 チラシの裏、考える視点と時間

チラシの裏とはよく言ったもので、チラシの裏に書くようなもの、書いたようなもの、つまりそんな落書きレベルの何か、アウトプット、ということを指すネット?スラングなわけだけれども。
ここにある文章もちらしの裏にすぎない、と卑下するのは簡単なんだけれども、でも本当にそうなんだろうか、もしくはそもそもチラシやちらしの裏には本当に価値がないのだろうか、ということについて考えてみる、思考を転換してみる、視点を移動させてみる、裏側に移動させたり、引いてみたり、近づいてみたり、そういうことなのかもしれないと今ふと思った。
そういうことかもしれない、の意味がわからないわけだが、つまり、何かについてよく考えるというのは、もしくは哲学のように(哲学そのものであるということを断じることができる立場ではないので哲学のようにというくらいが適切だろう)考える、哲学のように取り組むというのは、非常に抽象的にいえば視点をさまざまに変えるということも、またそのひとつなのではないだろうか。
そういう時に、よく考えて、というのはまず一つの方法である。よく考えて、って言われるとまず人は、時間をかけて考えるだろう。それもまた一つのよく考えるための方法だろう。視点の移動を伴わず、外部からの新しい情報も伴わず、とにかく時間をかけて考えてみる。
現代はとにかくスピードが求められてしまいがちだし、実際のところ経済や資本主義の原理に基けばそういうものなのだろうし、当然私たちも何かが早くできたら嬉しいと基本的には考えている。
しかし時間をかける、時間がかかる、ということには本当はもっと別の価値が、いや別なのか別じゃないのかはわからないが、そこには価値があるのだ、ということをいく人かが主張しているのを聞いて、今自分は同じくらい何かをうまく話せてはいないのだけれども、とにかくその時はなるほど確かにな、と思ったものである。
実際ChatGPTの推論性能を上げたo1 pro modeは、「時間をかけて考える」のだ。もちろん時間だけをかけてるわけではないわけだけれども。でも時間もかけて考えている。というのは面白いと思う。
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