#564 とりあえず試しにやってみることを他人に任せるという不完全さ

きのう何があった、ということは書かないにしても、いつだってその瞬間に描きたいことや思いついたことというのはその前提となる肉体から生まれ出てきているので、昨日何をしていたかには否応なくその瞬間の自分は影響を受けている。
というようなことを思ったのはなぜかというと、判断の論理性、みたいなことを昨日話していて。友人との忘年会だったのだけど。焼肉美味しかったな。初めて行ったお店だった。今まで行ってみてもおかしくないような場所だったのになぜか今まで一度も行ったことがなかった。不思議だ。
このまま焼肉の話を続けても良いのだが、それはやめておくとして。今日はひどく散漫に書いてしまいそうな気がする。でもまあそれも良いのだ、と許容するためにこの場所がある。枠組みがある。だからいいとする。
とにかく、なんだろう、仕事を任せるという話。仕事を誰かに任せることについての悩みの話題が出て、それについても話した。その時に自分が言ったことで、少し引っかかったので考えてみる。
以前から自分で考えていることではあるのだが、その時はそれでいいと思っていたというか、正解や不正解があるようなものではないのだけど、しかし納得感は自分としてはあったのだけど、しばらく経過した今思い出してみて、ちょっと納得がいかないところが生まれたのだと思う。
何かというと、「人に任せるということは結果の不完全さを受けれるということ」という考えについてだ。これの何が間違っているのか?全然間違っていない。そうではなくて、そうだな、人に任せるならば、結果の不完全さを受け入れなくてはいけない。それはそういうものだ。
人に任せるのに、結果が完全なものができてくると思うのは間違いだ。それはうまくいかない。初めから、結果は不完全なものである、という前提で構えておく。ということについて、まとめた言葉である。
そしてこれはやはり、間違っているとは思っていない。では何が違うというのか。それは、何かと考えてみると、「人に任せるということは結果の不完全さを受けれるということ、であるが、人に任せるということだけが結果の不完全さを受けれるということではないのではないか」ということである。
だって、人に任せずに、自分でやったら結果が完全になるのか、というとそんなことはない。
そもそも、この命題は、もともとある別の命題というか、そんな大したものではなくて、ある考え、とでも言っておくが、そういうものから生まれたものだ。
「とりあえず、試しに、やってみる」ということの大事さについて考えていた時に、とりあえず、とは準備の不完全さを受けれるということだし、試しに、というのは、、、うーんなんだっけ?自分の中ではまとまっていたと思うのだがパッと出てこない。
パッと出てこないが、考えてみる。今考えてみる。不完全かもしれないが。
とりあえず、というのが、準備の不完全さを受け入れるということだ、というのは自分としては納得している。腹落ちしている。
そうだ、試しにというのは、予測の不完全さを受け入れるということかもしれない。前の自分はそう考えていたような気がする。試し、というのは、結果がわからないから試すのだ。結果がわかっているものを、人間は試しに、とは言わない。試しにならない。食べたことがあり、美味しいとわかっているお菓子が目の前にあるとして、試しに食べてみよう、とは言わない。美味しいとわかっているからだ。予測できているからだ。
ここにはもう一つの意味があって、もちろんあらゆることには失敗の可能性が含まれているし、試しに、と思っていてもいなくても失敗する時はするし成功する時はするのだが、それに対して「あらかじめ」備えているということ。
備えているというか、それも含めて、失敗も含めて、織り込んでいるということ。これはどういうことかというと、つまりは実験なんだと思う。実験というのは、失敗してもいい。失敗というか、そもそも、うーんこれは自分が学術的に全ての実験の定義ややり方を把握しているわけではないので、実験心理学で実験というものを学んだ私の実験に対する一般論で語っています、という言い訳をしておく。
とにかく、仮説が「必ず」あるかどうか、ない実験もあるのかもしれないので「必ず」とは言わないでおくが、話を進めるために許してもらうとして、とにかく実験には仮説があり、仮説を検証するために方法を考えて、それで実験を行う。
そうすると、仮説が証明されたり、されなかったりする。でもされなかったとしても、仮説が間違っていたのか、方法が間違っていたのか、それだけではわからない。だからまた別の方法を考えたりして、また実験をするのだ。
つまりここで言いたいのは、あらかじめ失敗も予測に含まれていて、そこから得るものがあるということ。そうするともうこれは失敗ということではなくて、仮説か方法が適切ではなかったかもしれない可能性がわかった、もしくはたくさんある検証しなくてはいけないことの一つを減らすことができた、ということだと思う。
やってみるというのは、自分がやるということだ。行為の主体は自分である。自分がやってみる、ということだ。やる、とやってみるとの違いはなんだろうか。なんだと自分は考えているのだろうか。
これもまた、準備や予測が不完全であることはわかっている。でももう一つ別の不完全さを受け入れることだという気がする。それはなんだろうか。
「やる」というのは、ここでの意味としては、自分でやるということ。それは、前述した「任せる」との対比になるだろう。任せるのは実行が他人で、やるのは実行が自分だ。それはそういうことにここではしておく。
そうすると残るは「みる」のところである。やってみる、の「みる」がついていること。「やる」と「やってみる」の違いだ。やるのは実行だ。やる。実行。実行する。ではやってみるとはなんだろうか?実行してみる。それは実行の不完全さ、だろうとは思う。
でも自分としてはそれはまだうまく咀嚼できている感じではないので、もう少し咀嚼したい。
やってみるというのは実行の不完全さだ。「とりあえず」は準備の不完全さなので、もし準備が完全だとしても、実行が不完全な時はあるので、それは別のものだろう。
やってみるというのは、実行が完璧にできないことがあるということ。それを受け入れるということ。完璧な計画があっても、完璧に実行できるとは限らない。計画と実行は別物だ。やりながらそのプロセスで予想外のことは起きることはよくある。
まとめると、「とりあえず」は準備の不完全さ、「試しに」は予測の不完全さ、「やってみる」は実行の不完全さ、をそれぞれ受け入れるということだ。うん、なんかうまくおさまった。
そして本題にやっと戻るのだが、これらの「とりあえず試しにやってみる」ことから、さらに一歩進んだ、いや進んだのか広げたのかわからないが、とにかくもう一つ別の段階に、他人に任せる、ということがあるように思うのだ。
だから、他人に任せるというのは、その3つの不完全さを受け入れつつ、さらにもう一つ、それら全てを包括するような不完全さか、もしくは追加の一つの不完全さか、そのどちらかの不完全さを受け入れる行為である心構えであるというような気がしていて、そのことについて考えたいのだ。
では、他人に任せる、ということの不完全さとはなんだろうか。
気づいたらもう30分もこれを書いていて、だいたいいつも5分で終わらせるのだ、だいぶ長くなってしまった。5分で終わらせるのは、時間のあるなしというのとは別に、そもそも長すぎると誰も読まないからだ。自分も含めて。自分も、長すぎると後で読む気が起きない。であれば他人もまた読む気は起きないだろう。
と思って短く終わらせるのだが、今日は年末のお休みなので、時間が過ぎても書いてみよう、ということをしてみている。
他人に任せるとはどういうことだろうか。どういう不完全さを受け入れるということだろうか。結果の不完全さを受け入れることだ、と思っていたのだが、それは多分違う。なぜかというと、それは自分がやっても不完全だからだ。他人がやっても不完全なのはその通りなのだが、自分がやっても不完全なのだ。
では自分がやるのと、他人にお願いするので、何が違うのだろうか。いくつかあるだろうが、一つは例えば前提条件とか、こういうことをしたい、こういうふうに進めたい、つまり、目的、計画、そういったものがうまく伝わらないということだ。自分がやっても失敗することはあるとしても、自分にうまく伝わらないということはない。
まあもちろん自分の中でもうまく整理できていないことはあるけど、それは別の問題なので、置いておく。
飽きてきたのでそろそろまとめに無理やり入るが、他人に任せるというのはつまり、自分がやる場合の「とりあえず試しにやってみる」が内包する「準備の不完全さ」「予測の不完全さ」「実行の不完全さ」をもちろん全て内包した上で、さらに「伝達の不完全さ」を内包するということだ。
それはもちろん、ただでさえ自分がやってもそういう色々な不完全さを内包しているのに、さらに伝達まで不完全になるので、元々の3つの不完全さもより不完全になるということである。
そうすると、結果として、当然まあそうそううまくはいかない。まあそんなもんである。
後もう一つ思うがうまく整理できていない部分として、こだわりの部分である。ここまでやりたい。というゴールラインというか、許容ラインというか。そこが、自分と他人だと違う。これはまだうまく整理できていないが一応メモしておく。
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