#567 暦に誘われる思考と、終わらない書く練習――虚しさの正体を探して

暦とは多分人間が決めただけのものなのだけど、なぜこんなに色々と思うところが生まれるのだろうか、と考えるととても興味深い。今日は12月31日で、2024年の終わりの日である。自然と、今年どうだったかなとか、来年どうしようかな、とか年単位で考えるわけだ。
ここからは個人差があると思うのであくまでも自分はそうである、ということを前提にのみおいて進めるが、一ヶ月の終わりには、今月どうだったかなとか、来月どうしようかな、ということを考える。1日の終わりには、今日はどうだったかな、明日は何しよう、と考える。抜けていたが、週も同じことだ。つまり、思考が暦に自然と束縛されているのだ。
だからなんだというと特に何もないのだけど、今年一年のsubstackの数字を振り返っていて、見たところ2023年までは1年に100記事だけ書いて、書き終わったら残りの期間は何も書いていない感じだったので、キリがいい数字になっている。2023年の最後のは#300だ。
そうすると、当然だが、2024年の1記事目は#301。この記事は#567になる予定なので、257記事も書いたことになる。257/365=0.704109589なので、大体70%くらいの日において書いていたということになる。
そういう話を誰かにすると、すごいね!と言われるだろう。多分。きっと。自分が誰かにそのようなことを言われたとしてもきっとそうだ。すごいね。うん、すごい。
でもどうだろう、そのような時、すごいね、と言われる自分の気持ちはイマイチ晴れていない。恥ずかしさのような虚しさのような。
ここには二つの考えるべきことがあって、一つは、そもそもその誰かから言われるすごいね、みたいなものは、まあなんというか単なる社交辞令であって、別にすごくもなんでもないし、何の価値もないが、単にしょうがないから、はいはい褒めて欲しいんだろう、すごいって言われたいんだろう、しょうがない、とりあえずすごいね〜って言っておいてやるよ、というような言葉だから、それに対して虚しい気持ちになるのは当たり前だ、というようなことだ。
もちろんそういうこともあるだろう。しかし今回はそういうケースは除いて考えてみたい。つまり、先ほど言ったように、私がもし親しい友人にそういうエピソード、つまりたとえば、今年は257記事もブログを書いたんだよとか、他にもたとえば1年間英語アプリを続けられたんだよとか、そういうことを言われて、それはすごいな!継続は偉大だよね。というようなことを話したとして、それは関係性からしても、別に全然そう思っていないのに社交辞令としてとりあえず言っておいてやろう、みたいなことではないだろう。
つまり、社交辞令であるケースも当然あるし、それには気をつけるべきなのだが、そうではないケースもあり、今回は後者の社交辞令ではないケースについて考えている、ということだ。社交辞令であることを感じた故の虚しさというケースを除外したところで、話を戻そう。
親しい友人から言われて、そしてそれは別に社交辞令ではなくてそれは普通に褒めてくれているとする。そして褒めてくれていると自分自身も感じているとする。しかし、だとしても、イマイチ晴れない虚しさはなくなるわけではないように思う。
またその虚しさは自分の場合はいつどこでくるかというと、振り返った時かもしれない。書いている瞬間にはない。思考のリソースはそこに取られているから。しかし、年の終わりの今でもいいし、年の途中のふとした瞬間でもいいし、とにかくいずれにしても、ふと何かのおりに自分の歩みを振り返った時に、虚しさが生まれるのではないか。
逆にいうと、振り返らないと虚しさはないのか?それはわからないが、なんと無くそうかもしれないと思う。そうやって進み続ける強さもあるだろうし、方法もあるだろう。けれども、なぜか人間が便利だから決めただけの、道具としての暦が、人間に別の思考をさせるきっかけになっているとしたら、それもまた暦というものを人間が求めた必然性のひとつなのかもしれない。
ここから考えてみたいことが二つあって、一つはもう少しその虚しさについて考えてみたいということと、暦自体について考えてみたい。これは道の途中にある立札のようなものであって、時々こうやって自分がその瞬間に考えていたことを整理して、看板を立てておく。こちらの道はこれ、こちらの道はこれと。そうしないと迷子になってしまう。
まあ特に仕事とかではないので迷子になってもいいし、むしろその迷子になるような、仕事ではできないことをするためにここを使っている、そういう場所として定義しているということもあるので、別にいいんだけど。今日はたまたま看板を立てておきたい気分だったんだろう。
とはいえ全てを語り尽くすことはできないし、時間もそろそろ23分を経過していて、そもそもこのまま終わっていいのか、いや何か2024年の最後の文章がこれでいいのか、などと考えてみる。
何をしてもしなくてもこのまま今日1日は終わるし、すでにいくつか予定は入っている。やろうと思っていたこと、年内にやりたかったことは、もう全てやるのは無理だ。今年やろうと思っていたことはやりきれていないし、基本的には全てそうだ。いつもそうだ。やりたかったことを全てやることはできない。
それはやりたいことが多すぎるのかもしれないし、やる能力やスピードが不足しているのかもしれないし、もしくはおそらくその両方だろう。そもそもそれらの言説には基準はないので、そうだと思えばそうだし、そうではないと思えばそうではない、というだけの話である。
そしてこの、年末だからとか、年の最後の文章だからとか、だから何か特別なことを書かなくてはいけない、いつもと違う何かを書かなくてはいけない、書きたい、みたいなものは、浅はかな願望というか、まあそんなの無理なのである。一年間やってきた(と言っても70%程度だが)ように、唐突に無意味に文章を終えるしかない。急に特別なことをやろうとしてもできない。かもしれない。
急に特別なことができることもあるからなぁ。たまに。昔ピアノを弾いていて、練習で一度も理想的な形で引けなくて本番は若干妥協した形に変えて演奏する予定だったものが、本番中に突然、これは今日はいける、今自分にはなぜかわからないけどそれができるという意味不明な確信が生まれて、そしてそのフレーズを完全な形で弾くことを演奏中に決めて、そして事実それに成功したということがあった。
この経験は、奇跡かもしれないし、奇跡ではないかもしれないし、実は練習の最中にタネはあったのだろうし、もちろん練習なしにできたかというとそうではないのだけれども、いずれにしても練習中にそれに成功していなかったという事実はある。
これは良い経験でもあるし、悪い経験でもあるかもしれない。どのように悪い経験であるかというと、練習でうまく行っていなくても、ワンチャン本番でだけうまくいくことがある、という経験だ。それに頼ってしまうと、すがってしまうと、練習がおそろかになるというか、まあこんなもんでいいかな、みたいなところで終わっても、本番で突然うまくいくかもしれないという甘い考えがどこかに浮かんでしまっているとしたら、それは悪い影響を与えた経験だろう。
実際には練習でできていないことは本番ではできない。ほとんどの場合は。基本的にはそう考えておくべきだ。そう考えて、練習に臨むべきだ。でも自分がこの経験の悪い側面の影響を、その後の人生で一度も受けていないか、そのような心持ちで何かに挑んでしまったことがないか、というと、その自信はない。
一方で、練習は所詮は練習でしかない。練習をいくら繰り返しても、本番では失敗することもある。練習では100%うまく行っていたことも、本番だと突然失敗することはある。練習と本番は繋がっているが別のものだ。
この文章は、初めは書くことの練習だと思って始めていた。タイトルも「書く練習」というタイトルも候補にあったくらいだ。諸事情からやめたけれども、その諸事情がなければそのタイトルにしたかなったかなと思うし、今も突然そうするかもしれないけど。まあとにかく、自分の中では、これは練習であって、本番ではない。
じゃあ本番とは何なのよ、というと、まあそれはよくわからないし、特に設定はしていない。日々の練習である。本番のない練習とはでは何なのか?
普段はこの文章を書くときは5分のタイマーをかけていて、概ね、唐突だとしても5分で区切っている。それが継続のために必要なことだと考えているからだ。継続のために必要な仕組みであると考えているからだ。
何か素晴らしい文章の締めまで持って行こうとすると、そもそもそうそうそれは思いつくものではないし、時間が大幅に過ぎてしまう。そうすると、日々の他のタスクにも影響を与えてしまうし、それによって嫌になってしまうこともあるだろう。そういう考えから、唐突であっても、5分でいいじゃないか、と思っている。
やらないよりはいいじゃないかと思ってやっている。しかしこれも大きな落とし穴だなと思うことがある。少なくとも2024年を振り返って若干感傷的になっている自分はそう思っている。
どういうことか。それはつまり、偶然にも先ほどから何度か出てきた話にもつながるのだが、書く練習にはなっているかもしれないが、終わらせる練習はしていないのだ。だから取り留めがない。終わりがない。終わらせ方がわからないし、知らないのだ。練習もしていないのだ。
そして一回一回の文章の終わらせ方も練習していないし、練習を継続した先にある本番というものも特にない。そういうものだ。
そもそも、今ふと思い出したが、初期衝動としては無意味で無価値な文章を書きたいと思ったからだ。自分はテクノロジーにまつわる仕事をしていて、そうするとどうしても論理的思考に依ってしまう。まあテクノロジーに限らず、仕事の多くの場面では、説明可能である、誰かに説明する、ということが求められることが多い。
説明とはつまりコミュニュケーションだ。そしてなぜそれがあるかというと、人間が複数いるからである。あたりまえだ。人間が一人しかいなければコミュニュケーションはない。コミュニュケーションがなければ説明もない。自分しかいなければ、誰かに説明する必要はないのである。
だから、チーム戦の様相をますます強くする現代の仕事においては、説明とは非常に重要なものである。しかし、説明できるもの、から抜け落ちるものもある。みんなそれはわかっていつつ、説明を尽くすし、同時に、抜け落ちるものをある程度諦める。それでもやらないよりはマシだからだ。
だけどそういう論理的な説明可能性から離れたものが少なくとも今の自分には必要だと思ったのだった。忘れてたけど。いや、そういうものが必要だな、と思っているということは日々忘れていないのだけど、この一連の文章もその気持ちから生まれていたということはすっかり忘れていた。
そろそろ時間も45分が経過してきて、おそらく一番長いのではないか、という文章になっている。あまり長くなると、他人は誰も読んでくれないし、自分すら読まない文章になるので、そういう意味でも5分程度で終わらせるというのは良いことだと考えているのだが、今日は2024年の最後の日である、という無意味な感傷の影響で、ある程度長く書くことを許容してみた。
2025年は何しようかな。やりたいこと、やろうと思っていることはあるし、しかし全く事前には予想していなかった出来事や、きっかけ、チャンスみたいなものの方が実際には、ワクワクしたりする。だから、そういう時にもフットワーク軽くそれを実行できるリソースは残しておきつつ、でもそれは無計画で受動的なものであったりはするし、なぜならあらかじめ自分が計画して実行していたものではないからであるが、とにかく、少なくとも、全然飽きてはいないなと思う。
いやーでもな、うーんあれもしたいし、むしろあれはやめた方が良いかもだし、そもそもリソースは有限だからすでに足りてないし、みたいな色々考えたいことはあるのだが、それは書き始めると終わりがないので、これで2024年を終わりにしておくことにする。
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