書く実験の記録

#569 時間がかかることについて考える

長々とした文章を読むよりも短くまとまった文章を読む方がいい。映画も重要なシーンだけを摘んでくれたらいい。同じ結果を得るなら早い方がいい。コストが低い方がいい。

ファスト映画やタイパ・コスパについての賛否は数多くあるが、ファスト映画についての本を読んでなるほどな〜と色々、気づいていたこともあったし、新しい視点が得られた部分もあったし、いずれにしても興味深いなと思っていたのは少し前のことで、その後はあまりそのことを気にしていなかった。

自分自身はファスト映画は否定派だし、だけどじゃあ他に自分が同様なことをしてしまっている物事はないのか?通底する考え方をしてしまっていることはないのか?というと全くない自信はない。何かはあるだろう。

例えば私はミュージカル映画が苦手だ。どうにもみていられない。これはそういうものが「ダメだ」と言っているわけではないので、誤解ないように言っておくが、全くそういう意図はなくて、自分は苦手だ、というだけの話だ。

しかもおそらくそれは明確に何か線引きができるものでもなくて、これは苦手で、これはまあなんとか見れなくはないし、これは実はミュージカル映画に類するものだけどむしろ気づかずにそれを面白いと思っていたし、みたいな感じで色々あるのだと思う。

なぜそのようなことを言い始めたかというと、最近あるツイートを見た。曰く、ある文章に対して、要約したら数行で済むようなことを長々と書いているということについての批判ということになるのだろう。

確かに、同じ結果が得られるなら、早い方がいい。同じ情報が得られるなら、3000文字の文章より、3行にまとまっていた方がいい。実際自分も、AIによく「三行にまとめて」とか指示するし。十分に理解ができる。

しかしそれは「結果が同じなら」という前提においてであることを忘れてはならない。その結果は本当に同じなんだろうか?これは要約の精度が低いかどうか、ということではなくて。

もし仮に要約が完璧なものでありか不足がないとしても(100%ということはないが、まあ仮にそうだとしても)、その「時間がかかる」「時間をかける」ということ自体の価値、それは身体性と言っていいのかわからないが、自分にとっては今はそれは物理と身体にまつわる事柄だと思っているので身体性と言ってしまう。

とにかくその「物理的に身体が長時間そのことを行うということ」自体に意味はないとは言えないのではないだろうか。本当の価値はそこにあるのではないだろうか?ということだ。これは「あるのだ」という断言ではなくて、あるのではないだろうか、いやでもないかもしれないけど、どうだろうね、ということである。

2025-01-02

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