書く実験の記録

#578 聞く読書、生の記録、AIの境界

本を読むのは読書であるそれはまあ読んで字のお得本を読むというのが読む本読書ということであるでは例えば本の朗読を聞いたりするものは何なんだろうか本読んではいないしだからその本読みましたというのは間違いなんだけれどもそれに適した言葉が私は少なくとも知らなくて読書にならない聞く本だから聞書みたいなものだろうか

みたいな文章を今とにかく普段手動で入れている句読点すら入れずに音声入力でつらつらと入力してみた.その上でllm を通して句読点だけを入れてみてもらった.だけというかあとまあ段落も入れてもらった.

そうすると以下のようになる.

本を読むのは読書である。それは、まあ読んで字のごとく、本を読むというのが「読む本」、つまり読書ということである。

では、例えば本の朗読を聞いたりするものは何なのだろうか。本を読んではいないし、だからその本を「読みました」というのは間違いなのだけれども、それに適した言葉を私は少なくとも知らない。

読書にはならないが、聞く本だから「聞書(ききがき)」みたいなものだろうか。

内容は変えずに句読点だけを入れてというように指示をしたんだけれども実際にはほとんど問題がない程度にしか変わっていないが若干少し変わっている部分はある.全然変わっていない意味合いについては.勝手にかっこを入れているくらいかな.

あとは聞書の読み方を勝手に設定したところだろうか.これについては全くそんなことは言ってないんだけど.

この場所ではいろんな書き方の実験をしたい書き方と書くことを継続するということの実験をしたいと思っていたけれども.最近も一度書いた話題だけれどもその実験を邪魔しているものが1つあるそれはできるだけ生のテキストを残したいということだつまり生の記録を残したいという気持ち.

何が生なのかというとつまり自分自身が書いたテキストである.だからllm を通した文章というのは基本的には書いていない.

例えば自分が途中まで帰って あと残りを llm を使って書いてもらったり.あと最近作ったツールで自分が日々書いている1日の振り返りのようなものまあつまり平たく言えば日記のようなものだけれどもそういったものを自動的に読み込んでその中から何か記事に適したようなテーマみたいなものを探してもらうようなツールも作ってみたんだけれどもそういうものを使ってみるのもいいのかもしれない.

それはテーマを探してもらうだけであれば テーマを探した上で そこから自分が書く分にはいいんだけれども やはり そのアウトプット というものに関して llm を使うということに関しては まだ抵抗がある.

抵抗があるというか全然別の場所ではそのようなことは全然してもいいと思っているしましたりしているんだけれどもそれは用途というか目的というか場所によって違うのであってしかしこの場所はその記録を残したいという気持ちから記録であれば自分の生のテキスト生のその失敗とかも含めた生のテキストをインターネット上に残したいという気持ちがあってこれをやっているところもある.

そういった気持ちが アウトプット そのものに対して llm を通したものを出すことをいやいや抵抗を感じているということになるだろう.

しかしこれはよく考えてみるとおかしいというかダブルスタンダードだなという部分もある.なぜかというと今これを使っている音声入力を使っているわけだがこれがすでに自分が本当に意図してそれを出力したものではない.

まあ全く何一つ意図した出力ではないというのは完全に間違っていてまあそんなことは全くない.基本的には自分が意図して自分が発音をして何か自分が喋ってそれが文字になっているというのは事実である.

ただやっぱり自分の滑舌が良くなかったりとか適当に喋ってしまったりすることによってもしくは誤字脱字みたいなものをそれは音声からテキストに変換される時にそこに混じることはあってそれは自分が意図したものがそのまま出力されているわけではない.

現在ある色々な技術において世間では何を AI と言うか というのは正直言ってその時代によってどんどん変わっているし10年前とも違うし正直て5年前とも違うと思う.今 AI という言葉がおそらく 人類史上一番使われている時期だと思う.もちろんこれから先の未来にはもっと使われていくかもしれないが少なくともこれまでの過去に比べると今までの中では一番使われていると思う.

それは AI そのものが普及したということももちろんあるんだけれどもそもそも何を AI と呼ぶのかという 範囲 自体が広くなっている.

自分も例えば3年前であれば何でもかんでも AIと呼ぶことには抵抗があった.というか そもそも AI という言葉自体は広すぎてあまりそれを 技術的な言葉として使うことには抵抗があった.もちろん フィクションとか SF とかまあそういったものの中では何の問題もなく使っている違和感はない.

けれどもそれを現実の言葉として現実のものを指し示すものとして言葉として使うことにはやや抵抗があった.それはなぜかというと先ほども書いた通りその言葉があまりにも曖昧であまりにも定義が広いからである.

もちろん研究という分野においては狭い意味でのAI の定義 みたいなものはあるしけれども数年前ぐらいからそれこそ世間で盛んにその言葉が使われるようになってしかしその時はいやそれはAI というにはちょっと何というか古代広告なのではないか誇張表現すぎるのではないかと思ったようなこともある.

例えば プログラミングには単純な条件分岐があるんだけれども それを if 文 とか言うんだけども.その if 文 が1個だけあるプログラムひいてはアプリケーションがあったとして これは AI ですというのはなかなか 抵抗がある.

つまりはそういうことだ.その水準の技術を AI と呼んでいいのかどうかということに対して抵抗があった.

これについては今も抵抗がある部分もあるけれども逆に言えば抵抗その抵抗よりもなんとなくまあいいかなという部分もあるし何というか一気に技術水準が進みすぎてそして複雑になりすぎてそしていろんなものが組み合わさっているので何か一つのものを取って それが AI であるか AI じゃないかということを論じることにあまり意味がない状態になっているように思う.

さっきの条件分岐である if 文 に関して言っても.例えばだがもちろん現在のAI と呼ばれる技術つまり深層学習をベースとした技術が主にそのように呼ばれ始めた流れはあったというかまぁちょっと今うまく話せていないが流れ的には深層学習が一気に壁を壁を越えたというかその性能がある壁を超えた時に突然実用レベルのものになってそれが世間に受け入れられたというタイミングがあったんだけれどもそういう意味で言って単純な条件分岐である if 文 と深層学習はもちろん全く仕組みが違う.

けれども今の深層学習の仕組みみたいなものももちろんこの先もずっとその同じベースの技術にのっとって実装されていくかどうかわからないし.全く新しい技術が発見されたり開発されたりすることもあるだろう.

条件分岐である単純な条件分岐である if 文 があったとして それが100万個 あった100万個の if 文 が組み合わさっているものがあったとしてそれは人間が手でそれを書くのはもはや無理というかまあまあ難しいと思うけれどもまあ誰が書いたか別として例えばそういう100万個の条件分岐によって1つの何かの入力に対して様々なアウトプットが適切に出てくるようなものがもしあったとすればそれは内部構造を知らない状態で言えば場合によってはこれは何かの AI なのではないかときっ と思ってしまうと思う.

これは非常に大雑把な話をしているので条件分岐が100万個あったからと言って深層学習と同じような結果にはならないんだけれども人間がそこを判断できるのかどうかというのは全く別の問題としてあると思っている.

例えば最近のAI の進歩でオープン AI が出した現在最高性能のモデルとしてO 1がありそれをさらに推論性能を上げたものとしてプロモードというものがある.プロモードの内部の仕組みがどうなってるのかは正直言って全然知らないんだけれどもまあとにかくものすごくざっくり言うとすごい賢いやつがあると思ってもらえばいいだろう.

そしてしかし時々言われているものとしてはそもそもそれよりやや賢くないモデルを使ってもその違いがよくわからないことがあるということだ.

明らかに賢さは違うんだけれどもしかし用途であるとか使う人間であるとかによってその賢さがわからないということがあるわけだ.人間が人間に対する場合だってそうだしその人の本当の能力本当の賢さみたいなものは常にそれが数字で示されているわけではないので相対した時にそれが必ずしもわかるわけではない.

むしろそれがわかるということ自体がわかる側の能力を示しているというかわかる側の能力に依存している.わかる側がわかる能力がなければ分かられる側は分かられることはない.

話を戻すと結局ある時点での技術水準においてより高度なものとより初歩的なもの初歩的かどうかわからないがまあシンプルというか構造が単純なものがあったとしてその構造の単純なものを抽象的な言葉で言う何々ではないというのは時に難しい問題だなということだ.

膨大な数の行列の演算である現在のいわゆる 一般的に最も AI と呼ばれているものとよりシンプルなものがあったとしていずれその両者ともに技術が進んで行った時にそこには実際には性能の技術の差があるけれどもその差が人間には測れないようになったなることがあるとしたらもしかしたらその今その技術水準の違いが人間によって測られる測ることはできていたとしてもそこには違いはないのかもしれない.というようなことを思った.

2025-01-13

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