書く実験の記録

#604 整えるか、残すか / いい感じの機械

うまく書こうとしないこと。うまく書くということを目的や目標としないということ。それは一貫してこの場のテーマとして持ってきたように思う。それはなぜかというと、うまく書くというのは、もうちょっと噛み砕いて言えば、上手に書く、いや噛み砕いていなくてそれはそのままだな、整っている、とかそういうことだろう。

整ったものは、この場では不要だ。と思っていた。ここには二つの理由があるだろう。整っているというのはどういうものか。整った家、整った机の上。余計なものがない。あるべきものがあるべき場所にある。片付けられている。整頓されている。ノイズがない。ゴミがない。

ということは自分が求めているのはその逆ということだ。余計なものがあって、あるべきものはあるべき場所になく、片付いていなくて、整頓もされていない。ノイズまみれで、ゴミまみれ。整えるというのはノイズを排除するということだと思う。

よく思うのは、例えばなんか、別にものが少なくない、ものが多いのになんだかいい感じの部屋というものがある。自分はそれはあまりうまくないように感じているので、まあ例えば雑誌などにある誰かの部屋。海外のいい感じの部屋。ミニマルではないが、ものはいっぱいあるのだが、いい感じ。必ずしも整然とはしていない。

あのいい感じというのはなんなんだろう。

同じことは作品やインスタレーションなんかにも思うことがある。特にデジタルのインスタレーションなんかだと、機材やケーブルなんかもある。それの扱いにいつも悩む。

見せるか見せないか。これは見せて、これは見せない、そういう選定をするのか。しないのか。どこかの展示を見ても、ちょうど最近友人と話していたのだが、これは機材とかケーブルとか、機材とかが見えているけどいい感じである。でもこっちはいい感じだとは感じていない。ではそこにはどういう違いがあるんだろうと。

そこを言語化できるようになると、そのいい感じの見せ方というのが自分にも可能だ得ると仮定して、言語化しようとしたりした。

しかし、思うに、よりプリミティブに近い機械というのは、なんかいい感じになりがちだ。そして思うに、より高度な機械というのは、なんかいい感じになりづらい。この違いはなんだろうか。

そしてこのなんかいい感じ、というのももちろん、今の時点での、私の感覚だ。感覚に過ぎない。そしてそれは今のものに過ぎない。10年前も10年後もおそらく違うものを持つだろう。

ここに少し私の疑問があって、つまり、いい感じの機械だけを見せていい感じにして、いい感じではない機械を隠す、というのは果たして適切なのか?いや不適切ということはないけど。それは個々人のものだし。でもそこに自分は違和感を感じないのどうか。

レトロな機械、プリミティブな機械、というのはなんだかいい感じだ。ケーブルもいい感じのケーブルといい感じではないケーブルがある。でもある部分は隠して、ある部分は出すとしたら、その機械は演出としての機械だ。ある仕組みは見せて、ある仕組みは見せない。もちろんでもそれは、結局何を伝えたいか、何を感じてもらいたいか、もしくはまあ何が伝わるか何を感じるかは相手次第なので一旦おいておくとして、何を発したいか。それは印象であったりメッセージであったり色々だと思うけど。

それによって、発したいものに対して余計なものは隠すし、適切なものは見せる。シンプルにそういうものだと思う。それはそうだ。そうなんだけど、ここに自分がまだ言語化できていない、自分がもう少し自分の中で整理したいモヤモヤしたものがまだあるんだろうと思う。そしてこれは本当に他者への批判ではなくて、自分が自分としてもう少し上手くやるための自己理解の話だ。

2025-02-14

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