書く実験の記録

#348 100がキリがよいと感じていることに認知能力の限界を感じる

前回書いたのは3月12日。今日は3月21日なので、2024年においては最も間隔が空いたことになる。しかしそもそもここ数年やってみているのは1年間に100本の文章を書くということだ。このままのペースだと早々に2024年分の100本に到達してしまって、はて、そのあとどうしようと悩むところだった。

100というのは10進数に慣れ親しんだ人間に人間にとってのキリの良さでしかなく、何か物理的にとか実際的にそれによって真に都合が良い何かが起きるということはない。あくまで人間の限界がそうしているだけだ。もしくはとりまく環境がそうさせているだけだ。

だからなんとなく10回、というのは全然実際にはそこに囚われるとよくないのだろうなという気持ちはある。どういうことかというと、例えば毎日10回の腕立て伏せ、というのはまあ例えばあまり良くないな、なぜならそれは少なすぎるから、しかしまあ少なすぎるというところを棚に上げておいて、とにかく実際にはおそらく最適な回数は多くの場合10ではない。その付近だとしても、8かもしれないし11かもしれない。

毎日15分間文章を書こう、というのも、1時間や30分の単位で予定を立てる人間であるがゆえに、区切りのいい約数としての15分がそこにあるだけ。人生において1日のうち15分をそこに当てるのが良いのかどうかはよくわからない。

しかしそのさらに半分の7分間だと正直難しいし、次点としての15分がそこにある、ということになる。それ以上の意味はない。

同じように、実際的な意味はないのにもしくはもはや悪影響があるかもしれないようなことも、つい自分の認知能力の限界として、大雑把な単位で捉えざるを得ないというか、そうすることしかできない。それが知性の限界、認知の限界だ。

で、なんの話だったっけ。そうそう、とにかく、年間100記事、という数値にも別に意味はない。意味はないけど、なんとなく気持ちいから、ただ気持ちいからというだけでその数値にしている。だけど今年はこのペースだと早々に100記事に達してしまう。どうしたものか。

2024-03-21

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