#568 ちょうど良くなさについて考える

こんにちは2025年。ハッピーニューイヤー。明けましておめでとうございます。とにかく2024年が終わって、2025年になった。色々書きたいことは頭に浮かんでいるので散発的に書いてくことにする。
ちょうど良さ、について。ちょうどいいとはどういうことか。ちょうど良くないとはどういうことか。これについては主に仕事文脈での話だった。大晦日にランチ会食した友人とした話。スキルの有無で仕事が来るわけではないということ。依頼をするということではないということ。もちろんスキルがなくていいということではない。
でもあればいいということでもない。そしてこれはやっぱり人格も大事だよね、とかそういう話ともまた違う。例えば、自分が何かの仕事を依頼したいとする。誰かにお願いしたいなとする。そしてその依頼を間違いなくこなせる人がいて、そして相談可能なパスもあるとして。
でもだからといって、とはいえ流石にこの人にはこれは相談しないよな、という人は頭に浮かぶ。別にその人の性格が悪いとかではない。ではなくても、要はこの仕事をあの人にお願いするのはちょっとトゥーマッチだよね、というような会話をすることがあるだろう。覚えがあるだろう。少なくとも自分はある。
これがまさに、ちょうど良さ、ちょうど良くなさ、なのだと思う。つまりその人にお願いしたらできることはわかっている。でもちょっとさすがに。役不足、というと日本語としてはそうなのだろうが(力不足と役不足の意味の違いを正しく意識した上での「役不足」である)、どうしても少し別のニュアンスも含まれる気がしていて、外来語というか日本語化したカナカナ英語としての「トゥーマッチ」は適している。便利な表現だ。
とにかく、何かを依頼したり、依頼されたりすることには、ちょうど良さが必要である。とはいえ、ここにはもっと分解できる余地はある。なぜ、何が、ちょうど良くないのか。スキルが高すぎて、何が問題なのか。金額がちょうど良くないのかもしれない。高いのかもしれない。
もちろんそれもある。でもそれだけではないだろう。自分の器も関係してくるように思う。しかし器とは何か。これについてもいくつか思うところがある。
大晦日は長々と時間をとって書いたが、そもそもこれを一旦止めることも考えたが、まあ変化させつつもう少し続けてみる。とりあえず5分だけど、もう少し減らしてもいいかもしれないね。新しい習慣を入れるには今の習慣を減らすことも必要だ。時間を減らすために週に1回にするとかね。
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