#586 思考を預ける時代に / 変わる能力と変わらないもの

先ほどこれを書こうとSubstackを開いた時、502が出ていた。エラーのステータスコードだ。それもサーバー側のエラーだ。その時自分が書き残しているものはいつパッと消えてもおかしくないのだなと感じた。もちろんサーバーが死んでもデータベースは別だから、みたいなのはわかっているが、まあ大きく言えばと言う話である。
話は変わるが、最近、人間は考えることを諦めてしまうのではないかと思うようになった。これはもちろんAIの発展に関連しての思考である。そう言いながら今自分は考えながら文章を書いているが。
どう言うことかというと、最近色々なことをAIにアウトソースしている。ざっくりとした調べ物や、論理的思考、何かの変換、簡単なコードを書くことなど。いずれも今までは自分でやっていたことだ。
もちろん、調べ物とは言いつつ、ハルシネーションの問題があるので、それを全て信じているわけではない前提で使っている、と言うことは念の為付記しておく。
GPT-3くらいの時は、まだ、何か特定の一部の用途では使っていたが、自分が考えるのがしんどいなと思うようなこと、つまり考えると言うことの代替としてはあまり使っていなかったように思う。
でも今は、ChatGPTのo1やo1 pro modeを使っていて、少なくともそれで全て終わると言うことはないのだが、とりあえずそちらでも考えさせておいて(考える、と言う表現が技術的に正しくないことはわかっているが便宜上・感覚上そうしておく)、自分も考える。ラインを増やすようなことには使える。もっと言えば、スピードは向こうのほうが早い。
車ができて、人間は歩かなくなった。全く歩かなくなったわけではないが、まあできる前よりは歩かなくなった。と言いたいところだが、その前も馬とかがいたので、徒歩からいきなり車になったわけではないのでちょっとこの例えは適切ではないかもしれない。
計算機ができて、人間は計算しなくなった。もちろん全く計算しなくなったわけではないが。と言うような補足をそぎ落として行ってみる。試しに。
とにかく計算機ができて、人間は計算しなくて良くなった。そろばん、電卓、コンピューター。一定以上複雑な計算を電卓やコンピューターがあるのに自分でやる必要はない。
記憶もしなくなった。メモ帳や本は昔からあるが、何せ検索性が悪い。でもデジタルデータは検索できる。紙の良さもあるが、検索しやすさについてはデジタルデータの勝ちだろう。データを引き出しやすくなって、記憶もしなくなった。
そう考えると、記憶媒体は機械にアウトソソースしたし、演算装置も機械にアウトソースしたし、それでも人間らしさが失われたとは思っていないが、しかしそれでも何かが変わってしまうのではないかと今は思っていないわけではない。わからない。
諦める、と言う感覚が、ポイントになる気がしている。自動車に勝つことを人間はどこかの瞬間で諦めただろう。計算機に勝つことを人間はどこかの瞬間で諦めただろう。やればある程度できなくもないが、諦めると言うのは、そのできる範囲も任せることだ。これが悪いかどうかと言うことではないが。
ここまで、人間は、とか言っているが、主語が大きすぎるのは良くない。これは自分自身が感じていることだ。私はもう計算機が使える状況で計算を自分でやろうとはしない。諦めているのだ。
私はもうメモが取れる状況で自分の脳に覚えておこうとはしない。諦めているのだ。
車に乗れる状況で、自分の足で歩こうとはしない。諦めているのだ。
でもまあ、健康のためとか、流石に100m歩くのにタクシーや電車は使わないとかはある。計算については電卓を出すより早く計算できるようなものであれば確かに自分の脳みそでやっている.
電卓を出すより早く計算できるかどうかというのはこちら側の問題である.つまり計算機の問題ではなくて人間の性能の問題である.電卓を出すより早く計算できる範囲が私よりずっと大きい人もいるだろうし私より小さい人もいるだろう.でも電卓を使うというものは現代においては少なくともコストは限りなくゼロに近いぐらい小さい行為なのでお金の話ではなく.
しかし電車に乗ったりタクシーに乗ったりっていうのはある程度お金の問題がある.もしこれが無料だったら100m でもタクシーに乗ってしまう人がいるかもしれない.もし健康の問題がなければもし全く歩かなくても健康に全く問題がないということであればもっとそうかもしれない.
計算を自分の頭でやらないと何か健康であるとか自分の身体に問題が起きると考えてる人はいない.私もそうは考えていない.それは他にもっと色々考えていることがあってその中の1つとして得意なものはコンピューターが得意なものはコンピューターに任せているという感覚があったからそこには大きな恐怖感はなかった全く恐怖感はなかった.
何かを覚えておくということに関してももはや全てを覚えておくことは無理だしという感覚はこれはすなわち諦めであって諦めて何でもメモするようになってそして検索できるようにして乗り切っているところはある.ここももはや恐怖感はなかった.頑張って覚えておこうという気持ちは正直言ってない.
では今 AI が発達してきて今まさにできるようになってきている分野はどうだろうか.これは多岐にわたるので一つ一つによって違うケースはあるとは思うがこれは少しまだ自分は恐怖感がある.AI ができることが増えたからと言ってそれを全て手放して任せていいのか.
でもこの恐怖感というものもいずれなくなってもしまうのかもしれないしそれは今まで諦めてきたものと同じなのかもしれないし違うのかもしれない.今まで諦めてきたものによってつまり長距離を自分の足で歩くことを諦めたり計算を自分の頭ですることを諦めたり何かを長期間覚えておくということを諦めたりそして機械に代替させることによって自分の能力を拡張してきたと感じている.
しかしこの先は本当に自分の能力を拡張していたという感覚が得られるんだろうか.どこか自分ではないもの自分は必要ないものという感覚になってしまうのではないだろうかそういう恐怖感はあるし.そうは言ってもまあ使わないわけではないのでこれが今までも繰り返されてきた変化の中のものなのかそれとも今回は違うもんなのかというものは興味を持っている.
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