#649 可能性をいかに減らしていけるのか

何かをうまく進めることができる能力が強く求められているように思う.それはどこで求められてるんだよと思ってしまうが少なくとも自分の観測範囲ではそれが求められているように感じる.
うまく進めるということにも色々あるしそもそも何をうまく進めるのかということもあるしうまく進んでいるということにはうまく進んでいるという状態はどういう状態なのかということもあるしどういう役割を担うのかということもある.
うまく進んでいるプロジェクトとうまく進んでいないプロジェクトがある.うまく進んでいないプロジェクトには必ず原因がある.というか原因がなかったら困る.困るって何だよという感じだけれどもまあ困る.
原因がないということはないだろう.原因が見えない原因が分からないということはあるだろう.原因はきっとある.原因は必ずある.ただその原因が自分にわかるかどうかは分からないし分かったとしてそれを解決するという課題が自分にできるのかどうかもわからない.
ただ感情を吐き出すのではなく自分の中で何か納得がいく筋道を立てたり自分の中で納得がいく構造を作ったりそういうことをしたいと思ってるのではないか.
ADHD というものは診断がつく病気だしまあそういうものがあるとしよう.実際のところ何を病気だとして何が病気だとしないのかというものは診断というものによる.診断に依存している.
つまり雑な言い方だけれども病気は診断が作り出す.これは別に病気などは存在しないんだみたいなこと言ってるわけではない.それに医療や医者が例えば怪我をさせたり何か体内に病原菌を作り出したりそれを植え付けたりしているというようなことではもちろんない.
これは全てのもの全ての言葉と同じでまず名前があるかないかという話.この世界にはまだ名前がないものがある.これから生まれてくるものもそうだと思うしこれから発見されるものもそうだと思うしあとはすでに存在する複数のものの組み合わせで成り立つ概念みたいなものにまだ名前はついていないということもあるだろう.
が組み合わさっていてそれに名前がつくというのはすでに存在はしてるそれがすでに存在はしてるんだけれどもしかし便宜上というか何と言うかそこにはまだ名前がない.
可能性というものをいかに減らしていくのか.いかに減らしていけるのかということが大事なのではないか.これがもし人生が無限であれば無限に生きる生き物であれば全ての可能性を持ったまま全てのことを実行していってもいいだろう.
医者にもなれるし弁護士にもなれるしスポーツ選手にもなれるかもしれない.まあもちろんなれないかもしれないけど.なれるかなれないかという基準があるものはあまりちょっと話が違ってしまっているような気がするが例えば何かの行為をするということにおいては別に学期の練習をしてもいいし何か新しいソフトウェアを書いてもいいし作ってもいいし新しい絵を書いてもいい彫刻を作ってもいい料理をはまってもいい.
もちろん人を傷つけたりするのはやめた方がいいし本当に無駄だという時間を過ごすのはやめたほうがいいだろう.人を傷つけるということを生まれつき望んでしまう人がいたらどうするのかということであるとか本当に無駄かどうかということをどのように判断するのか本当に無駄と本当に無駄ではないことの境目はどこにあるのかということについてはおそらく論じるのは難しいので一旦置いておこう.
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