#674 朝起きたくないを分解する

規則正しい生活の方がいろいろはかどると聞いて、そのように努めてここ数年経つけれども、実際に自分が他人と比べてそれができているかどうかということはわからないが、まあとにかく自分の中では昔よりはできているなと思っている。
いろいろはかどるというものはもちろん仕事であるとかそういう頭がよく働くとかそういうこともそうだしもちろん健康もそうだどちらも大事だと思っているむしろそれらはつながっているとすら思っている健康な体でなければ健康に活動することはできないと言いながら、これはあーやばい、今言葉が出てこない。
これは自己言及もしくはトートロジーのようなものだと思う。おそらく自分はこの2つをうまく区別できていなくて、間違った使い方をしていることもあるような気がしている。 この辺はまあいずれきちんと調べて理解をしておこう。間違ってしまうと恥ずかしいからね。
まあそれはそれとして、解像度について考えてみよう。解像度というのは、まあ非常に細かくざっくり言ってしまうと、認識の細かさのことだいや、認識と言ってしまうと、間違っているかもしれないが、少なくとも今自分が話したいのは、認識の細かさのことである。
抽象的な話から入ってしまったけれども、具体的に言いたいことがあったので、そっちを話そう。そんな大した話ではないというか、全く大したことなくて、朝起きれるか起きれないかというあの些細な話である。
自分は比較的朝起きれるタイプだと思うなんなら目覚ましが鳴ったらパッと起きてパッと布団から出れることも多いただやはりたまにはなんかめんどくさいな起きたくないなと思うこともある。 いやたまにというのはちょっと言い過ぎたかもしれない。実際にはしょっちゅうあるし、なんなら毎日できれば布団から出なくてよければ出たくないかもしれない。
しかし現実には、布団から出たくないという気持ちと、布団から出て何かをやりたいことがあるとして、その2つの比較によって起きるということを選ぶのだと言いたいところだが、実際にはそんなこともなくて、そんなことをよし、今からやりたいことは何だろう。そして、起きたくない気持ちはどうだろうどっちが大きいだろうみたいなことは、もちろん人間はそうだし、当然自分もそんなことは考えていない。多くの場合、そんな面倒くさいことを考えずに、直感的に何かを判断して、直感的に何かを行動しているものだ。
そして抽象的な話はつまらないと思うので、具体的な話をする。けれどもとにかく、朝、例えば目覚ましがなったとしてもしくは目覚ましがならなくてもいいんだけれども、とにかく目が覚めたとしよう。目が覚めた瞬間である。
そしてなんとなく布団から出たくないなと思う。これがポイントである。これが気づいたことである。
つまりなんだろうな布団から出たくないのであって寝たいのではなかったりはする。 自分はあまり二度寝はしないようには思う。つまり、そもそも前日何時寝たのか、つまり何時間寝ているのかにもよるんだけれども、自分もそうだし、多くの人にとっても、おそらく必ずしももう一度寝たいということと、布団から出たくないということは、重なる部分もあるけど、イコールではないのではないだろうか。
布団から出たくないイコールまだ寝たいということを一緒に考えている人もいるだろうし、多くの人はそこを分けて考えていないなぜなら考える必要もないかなと思うけれども、ある時自分もふとそれまで考えていたそこが一緒であるそこを区別しないという考え方にいやそうではないのではないかと思った瞬間があった。
つまりもう少し寝たいという気持ちはもう少しで寝たいという気持ちであって、まだ布団から出たくないという気持ちはまだ布団から出たくないという気持ちである。 今非常に当たり前のことを言っているが、ざっくりと言うと、この2つはともすれば同じだと1つのものだとイコールだと考えてしまうけれども、その2つは別のものであるという気持ちに至ったということだ。
だからなんだというとつまり寝たいというのは寝てたら他に何もできないんだけど、布団に入っていたいというのは布団に入っていて他のことができるわけだただ場所が布団なだけだ。
だから布団から出たくないけれども別に眠くはないというときは、例えば布団から出ずに何かをしたらいいそうすると、自分の中の例えば朝何時に起きてそこから活動を開始しようということの妨げにはならないということが分かった。
もちろんそのまま布団に入っていたらできないこともあるし、布団に入っていたままだとまた寝てしまったりすることも実際にはあるから、それは布団に入り続けることが良いとはあまり思っていないけれどもしかし、布団に入っているが目は結構きっちり覚めていて、何かその場所であれば有意義なことができる自分が布団にいたいという気持ち、布団から出たくないという気持ちとしかし、何かをきちんとその時間からやりたいということが矛盾せずに実行できて、自分が罪悪感に苛まれたりせずに済むということに気づいた。
ついつい、例えば布団に入ったままツイッターをだらだらとやってしまうみたいなことは、もちろんあまり有意義ではないと自分自身は感じる。しこれは、もちろん人によるんだけど、有意義なツイッターの使い方もあるだろう。しそこに目的意識がある人もいると思うが、自分の場合は、まあそうだな、だらだらとしてしまうことがある。
そして、それに対してもちろん自分は、それを良いと自分自身に対して思うことはできないし、良くないなと罪悪感を感じてしまうわけだけれども、これは他にやることがないもしくは精神的にできることがないという時に、それをやってしまいがちだ。
どうしても分かってはいるが精神的にそれしかできない時というものはある。しそういう時は仕方がない本当にそうであれば仕方がないだけど、そうじゃないこともある。しやってるうちにそうではない状態になっているけれども、そのことに気づいていないこともある。所以、そういう場合はそれをきちんと認知したいというのはあるが、それはまた別の話である。
一方で前者のそれしかできない状態であるつまり精神的にそれしかできないわけではないけれども、その与えられた環境を制約としてそれしかできない状況であるという認識の場合は、もしかしたらその認識自体が間違っている可能性がある。例えば、私の場合はスマートフォンでできることをつまりじっくりと腰を据えたパソコンを開かずにできることをいくつか準備しておいて、しかもそれが自分にとって有意義であると思えるようなこと。例えばだが、スマートフォンで英会話のアプリをやるみたいなことは自分にとって最も人生で大事なことではないけれども、だからそれを一日中やることはないけれどもしかし、何かの折にツイッターをしてしまうというよりは、何かの折にその時間にそれをやる英会話のアプリをやるという方が自分にとって有意義であるし、自分にとって有意義であると感じることができるし、それによって罪悪感というものを感じずにいられるので、そちらを選択する方が良いわけだ。
ということで、朝起きて布団から出たくないときは、布団から出ずにそのまま英会話アプリをやるとか、他にも何か有意義なことを決めておけると、意外に布団から出ずに、そして寝どねをするわけでもなく、何かそのような自分にとって有意義な意味があると感じることができて、つまり、それらは意外に両立できるということに当たり前のことにあると気づいたのだ。
突然話が変わるが、普段会話をしていて、Xという単語は様々な文脈がある。特に何かの単語としてではなくて、何かの言葉上の変数みたいなものを設定したいときもあるだろうし、実際にプログラミング上の変数の話をしている場合もあるかもしれないし、もしくは座標の話をしている時もあるかもしれないし、SNSの話をしている時もあるかもしれない。そんなこともあって、仕事上とか普段の会話上は、Xと言ってしまうよりもTwitterと言ってしまう方が非常にコミュニケーション上誤解がない。
そんなこともあって、そして実際にXではなくてツイッターということで伝わらないことは、正直言ってないし、さすがにまだあまりツイッターからXに名前が変わってから始めたという人は全体の中で多くはないし、もちろん世の中にはそういう人もいると思うけれども、全体の中ではまだ少ないし、実際のところそういう人も含めて、ツイッターという言葉に馴染みがないから伝わらないということは当然なくて、どちらかと言えばそのような固有名詞のほうが会話上は困ることが少ない。
そんなこともあってついつい、むしろ意図してツイッターというふうに言ってしまうけれども、それが当然クセになってしまっていて、今このような入力の中でも、ついついXではなくてツイッターと言ってしまっているように思っている。
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