書く実験の記録

#681 カフェインの摂りすぎは良くない

馬から落馬したとか、お腹が腹痛だとか、頭が頭痛だみたいな言い回しは、意味が重複していておかしい例えとして時々使われるように思う。そのような言い方っていうのは、なんとなく変だなと感じるし、「馬から落馬した」という言葉そのものを普段言う機会はないけれども、なんだか意味が重複している言い回しだなと思うことに気づくことができて、その辺が気になってしまうことはある。

自分が何かを言ってしまって、「これは馬から落馬しているな」と思うことはあったりはする。しかし昨日、ふとした時に今まで気づいていなかった。おそらく普通に使ってしまっていたけれども、よく考えたら「馬から落馬した」のような文章の構成になってしまっているのではないかということを、ふと街行く人の会話を聞いて思ったことがある。

その人はコーヒーを飲むことについて誰かと話していて、「カフェインの摂り過ぎはよくないよね」という話をしていた。ここでもう結論が出てしまっているというか、結論を話してしまっているのだけれども。この「カフェイン摂り過ぎはよくないよね」という話を、おそらく自分もそのような「何々のしすぎはよくない」ということを言っていると思うのだ。言っていることは、でもあるような気がするのだが、よく考えたらこれは意味が重複しているのではないだろうかと思ったわけである。

つまりどういうことかというと、「何をしすぎる」というのは、たとえば「カフェインの摂りすぎ」というのは「カフェインを摂っている」「カフェインを摂っている」ということと、「カフェインを摂り過ぎている」ということは、「カフェインを取る」というのは摂取するということであって、それはただの行為であって、それが良いとか悪いとか、少ないとか足りないとか、そういう意味合いはない。

一方で「カフェインの摂り過ぎ」という言い方っていうのは、過ぎすぎている、カフェインを摂り過ぎていると、つまり何かの行為もしくは量、量が過剰であるということを示している。「カフェインの摂取量が過剰である」という意味だ。であれば、この「過剰である」ということには、その時点ですでにネガティブなニュアンスが含まれているのではないだろうか。少なくとも自分はそのように感じる。

「トレーニングのしすぎは良くない」とか「カフェインの摂りすぎは良くない」とか「ご飯の食べすぎは良くない」とか、「過ぎたるは及ばざるが如し」と言うけれども、とにかく様々な過剰さというものはある。ただし、過剰さそのものが良くないわけではないというかと自分で今思ったけれども、「過剰」という言葉そのものが「多すぎる」という意味なわけで、そうすると「過剰」自体はネガティブなニュアンスが含まれているのではないだろうか。

そうは言っても、いい意味での過剰さとか、表現としての過剰性みたいなものもある。そういう言い方もあるので。この辺は本来の意味と現在の使い方の乖離というものもあるのかもしれないが、「過剰さ」ということを本来は良くないニュアンスがあるけれども、これに関しては「それが面白いのだ」とか「良いのだ」ということを言うことはあるかもしれない。

が、例えば少なくとも「カフェインの摂り過ぎ」というニュアンスにおいては、あらゆる意味においてそのことにポジティブなニュアンスを含めて「カフェインの摂り過ぎ」という言い方をすることはないだろう。つまり、「カフェインの摂り過ぎ」という言葉には元来否定的なニュアンスが含まれているので、「カフェインの摂り過ぎは良くない」というのは、「カフェインの摂り過ぎ」と言っている時点でそこに「良くない」という意味は入っているのでは――老後反復とかリンゴはリンゴだみたいな、いや、ちょっと違うけれども。

とにかく、「良くない」ということを言う前にすでに「良くない」というニュアンスが含まれているので、実はなんかちょっと変な表現なのではないかということを思ってしまったのだが、まあなんだろうかと、ふと聞こえて気になったことを非常に大げさに細かく考えていたけれども、別に普段からそういうことを常に考えているわけではないので、これを読んでいただいた皆様におかれましては、遠慮なく「カフェインの摂り過ぎは良くない」ということを僕に言っていて大丈夫です、ということをお伝えしておきます。

2025-05-13

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