書く実験の記録

#681 命をかけて朝食を食べる

自分が命をかけて何かをする、みたいなことを言うと、それはとても特別なことをする感じがする。フィクションの主人公がストーリーの中で「命をかける」みたいなことを言えば、それはとても大きなことを言っているし、それはつまり命をかける意志があるということだし、その意志に意味があるということだろう。

一方で、しかし私たちの日常生活において、「命をかけてこれをやるのだ」というほどの物事に出会ったり、もしくは自分がそのようなことをしている人というのは、あまり多くはないのではないだろうか。少なくとも自分自身も、日々の生活において「これを命をかけてやるのだ」「私の命をかけてこれをやるのだ」と思っていることがそれほどあるかと言うと、正直言って思いつかない。

もちろん、情熱をかけてやっていることとか、好きでやってることとか、こだわってやっていることとかはある。けれども、それ自体を「命をかけてやってるんですか?」と言われたら、それをイエスというのは難しいし、「命をかけてやる」ということがとてもすごいことであるという前提に立っている。

しかし、ふと考えてみるとどうだろう。私たちは、すべてのことに命をかけて取り組んでいるのではないだろうか? 全く違うし、同じだというつもりはないけれども、ここで言いたいのは、その意志がなくとも同じように大切なものをかけてしまっている、かけているのではないかということ。

どういうことかというと、例えば今日は1時間SNSをぼーっと見てしまったとする。もしくはYouTubeを2時間見て過ごしてしまったとする。ここで「私は何かをしてしまった」と言っているので、それ自体がすでにネガティブなニュアンスを含んでしまっている。これは別に×じゃなくて、SNSをやっていたりYouTubeを見ていたりということは、もちろん有意義な場合も、有意義な目的に基づいてやっている場合もあるのだが、そこは今のところフラットに、あらゆることをフラットに言うべきなので、先ほどのネガティブなニュアンスは取り消そうと思う。

とにかく、まあ日常的に、意識せずについついやってしまうこと、時間を使ってしまうこと、何でもいいんだけれども。別にそれは寝ていることでもそうだし、ご飯を食べることでもそうだし、テレビを見ることでもそうだし、歩くことでもそう。何でもそうなんだけれども、人は死ぬことを忘れて生きているから、ついそのことから目を背けがちだが、生きている時間というものは死ぬまでの時間なわけで、そして現在の技術水準においては、今のところそれは有限だ。

その有限のリソースの中で、それを意図して、意識して何かを決断してやっているか、それとも無意識のうちに、というかついつい強い意志を持ってではなく、ついついやってしまうようなものなのかということは一旦さておいて、一旦棚に上げておいて言うと、あらゆる行為が自分の人生の有限の残り少ない時間をかけてやっていることになる。

それはつまり、時間を使っているということは、命を使っているということ。命をかけているってことなんじゃないだろうか。

だから「私は命をかけてこれをやる」と言うと、その意志はとても素晴らしいものだし、すごくハードルが高いことな感じがするから、私もなかなかそうは言えないし、そう言える人は少ないと思うが、しかし結果的にその意志がないものでも命をかけてしまっているというのは同じなのではないか。もちろん、まあニュアンスは違うんだけどね。本当はね。

そもそも「命をかけて何かをする」という、そのフィクションにおける表現というものは、フィクションじゃなくてもいいんだけど、あらゆるそういうその言葉っていうのは、そのシーンによって実際に何をかけているのか、実際何を使っているのか、何を天秤にかけているのか、もしくは何をリソースとして使っているのかというものはそれぞれのケースで違うし、というつもりはない。

もちろん一番大事なのは、それを意志やと思ってやるというそのこと、その意志や意図自体に、その決断自体に意味や価値がある。非常に大きな意味や価値があると思っているし、それは大きな違いなんだけれども、しかし私がここで言いたいのは、結局そのような意志や強い意志がなくても、ないとしても、また別の意味で私たちはすべてのことに命をかけて、命という有限のリソースを消費しながら、すべての行為は行っているわけで、そのことにもっと自覚的になるべきなのではないかということだ。

昔読んだ本に、もうタイトルは忘れてしまったが、「多くの人はとにかく死なないと思って生きている」と書いてあって、「死ぬということを忘れて生きている」と書いてあって、それは全くその通りだなと思う。

そしてそれは現代における病というか傾向ではなくて、昔からそうだな。「メメント・モリ」という言葉などがあるように、日々に興じて日々生きるということ、いや、むしろその生きるということ自体に意識することすら忘れて、有限の生というものを無自覚に、無意識に消費して、そしてそれをガソリンに、それを燃料に、その時間というものを燃料に使いながら、私たちはすべての行動を行っている。

だから、そこに意志があろうがなかろうが、すべての行動は命をかけてやってしまっている。であるがゆえに、どうせならそのことに自覚的になって、そのことを何かの意思を持ってやることができたらいいのではないか、などと思ってしまうわけだが、しかし「よし、じゃあ命をかけて朝食を食べるぞ」なんて思って毎朝やるのは、さすがにしんどすぎるし、そんなことをしていたら逆に何かがおかしくなってしまうような気がする。

だからこの話は、一つの思いつきをあまりにも大きく言いすぎたかもしれないし、しかしこれはつい自分も忘れがちだからこそ、そのような気づきに対して何か感じるところがある、と思ったということだろうし。

そして、なんだろうな。そもそもこれらのこの文章を書く場所を作った理由の一つとしては、ロジカルではないもの、論理に落とし込むことはできない、まだ論理に落とし込むことができていないか、まあもしかしたら永遠に落とし込むことができないようなものであっても、それを形にしたり、この世界に残したり、外に出したりするということ。

それはつまり、ポエムというものと揶揄されてしまうようなものだとしても、それこそ論理ではない、何かしらの自分なりの説明はできるんだけれども、しかしそこはもともと直感から入っているもので、なんとなくだが、少なくともこれからの自分に必要なものは、論理だけではなくて、その論理にまだ落とし込めていない感覚的な部分であるとか、考え方であるとか、まあいわゆるポエムとしてでも、それを何か外に出すということ。

それはとても恥ずかしく、傷つきやすいものではあるし、まあ色々突っ込まれるときっと辛い部分もあるんだろうけれども、あくまでもその瞬間のポエムであっても、そのようなおぼろげなものというものを何か、ぼんやりと──これはあれだな、某政治家みたいな話になってきたが──おぼろげであってもポエムであっても、それを形にするべきなのではないか。

そしてそれは別に何かの完成形ではなくて、むしろそこから何か生まれるのではないか、ということだったような気がする。

いずれにしても今日の話に戻すと、私はこの文章を書くということに自分の人生の一部を使っているのは間違いがないし、だからそこに強い意志は、強い意図、つまり「私はこれに対して命をかけているんです」みたいなことを言うつもりはないし、そんなことを言うのはなんかおかしいなと思うけれども、それを他人に言うかどうかということと、しかし自分の人生の時間を使っているということに関して言うと、それは全く矛盾するものではなくて、自分自身がこれに命を使っている、自分の人生のうちの時間を使っているということにもっと自覚的になって、「果たしてその価値があるのだろうか」ということを常に問い続けなくてはいけないと思うが──いやいや、「価値」みたいなものは測れるかどうか、何かを測れるものが測るべきものであるとは限らないということをよく自分も口にするんだけれども、測れるものばかりではないし、それが明確に数値として測れる、自分の中だけでも何か数値化できるわけではないし。

しかし、すべてにおいてそれをやっていくわけにはさすがにいかないから、何か曖昧で直感に頼る部分というものを一定数切り出して、そのことに時間を使ってみるということなんじゃないだろうか。

2025-06-02

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