書く実験の記録

#686 誰が/何を/どう、やったか?

技術なのか作家性なのかという問いがある。これは必ずしも二律背反ではなく、両方持っている人もいるわけだから、最終的には両方持っていたらいいよねという話でしかない。しかし、全ての人がそれを両方手に入れているわけではないし、その二つの要素について考えてみた。

一旦単純化して考えた場合、例えばコンテンツ、発言がどんな内容だったのか、つまり内容が大事であるという話と、誰が発言したのかが大事であるという話、この対立構造に似ていると思っている。

技術と作家性は、時代を経て揺れ動いている。ある時代は作家性が有利で、ある時代は技術が有利だったりする。作家性と技術両方持っていたら良いが、実際のところそれを両立するのは難しい。技術がある程度普及してコモディティ化し、いろいろな人が触れられるようになって民主化すると、それをどう使うかという話になる。それは作家性と技術というよりは、個人と組織どちらが強いのかという話になる。

仮に全ての人に同じように技術が行き渡り、使える技術というものがあって、その上で競争した場合は、個々人の工夫、作家性が差別化になる。一方、技術が民主化していない場合は、技術を使えること自体が差別化になる。それはその人の能力、努力、運などの結果であり、作家性でもある。全ての人が同じ技術を使える状態での競争とは異なり、技術そのものが前提で差がついている。

例えば今の時代、高性能なAIモデルを作れるのは資金力などの面から事実上大企業に限られている。個々人が努力してChatGPT相当のモデルを作れるかというと、それは無理だ。少なくとも高性能なモデルを作るという試合は終了している。

新しく組織を立ち上げ、大規模な資金調達をして戦っていく人が生まれるのは良いことだ。競争はあった方がいい。個人の工夫でそこを戦えるかというと、それは難しい。

同様に、時間やリソース、資金が必要な研究から生まれたものが世に出て強い印象を残している時代と、技術が一般に普及して多くの人が使える状態になり、個人の工夫に差が出てくる時代は揺れ動いている。それぞれ違いがあり、良さがある。

0か1かではなく、移行する時は常にグラデーションで動いている。完全にどちらとは言えないが、大きな流れは存在する。

技術が民主化されるかどうかによって流れは大きく違う。今回のAIの流れでは、技術を開発した企業が大きく民主化しているわけではないが、ある程度は公開しており、みんなが使える状態にしようとしている。AIのチャットボットやAPIなどは積極的に公開されているが、本当の競争力の源泉は公開していないだろう。今は良い競争が働いていて、いくつかの大きなAI関連企業がモデルを開発して競争している。

これが独占状態になると市場が機能しなくなるため、競争は続いてほしい。そう思いながら、AI企業にお金を払ってAIを使っている。

話を戻すと、技術なのか作家性なのかという対比構造は、何を言ったのかと誰が言ったのかの対比構造と接続できるのではないかと考えている。何を言ったかは中身であり、技術と言ってしまうのは飛躍しているが、純粋な作家性は技術とは別のものだと考えている。

個人の作家性が全く技術を持たないわけではなく、それぞれ違う技法や技術を持っていて、それが作家性に現れている。これはどちらが主導しているのかということだろう。

今はAI企業の力で、今まで人間にしかできなかったことがAIによってできるようになっている。まだ足りないが、ある程度は進んでおり、あるレベルまではできるようになっている。今後も進んでいくだろう。能力や技術の差は生まれつつあり、一定レベルまでは埋まりつつある。全ての人がある技術を手にして試せる状態に近づいている。

とはいえ、今は一般化している途中で、多くの人、特にテクノロジーに詳しくない人まで普及しているかというと、リテラシーや能力の差はまだ存在している。

これがさらに進んで、例えばLINEでメッセージを送受信する程度まで普及すれば、技術自体では差はつかなくなる。そのときはLINEで何を送ったのかが重要になる。

考えてみると、何を言ったか、どのように送ったのか(LINEを使う技術)、誰が送ったのかは別の話である。そこはきちんと分けて考えるべきだ。三つの要素を考えるべきなのではないか。引き続き考えてみようと思う。

2025-06-08

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