#687 決めることと、偏るということ

偏らないということはすごく難しいなと最近感じている。全く偏らないということはもちろん不可能であるとして、できるだけ中立・公平・フラットな目線を保つとしても、もちろん誤差のレベルの真ん中ではないということはありえるというか、完全に0か1いるということは難しいし、それは無理だとしても、そうではなくて大まかに中間の考え方をしているということだけでも、それは非常に難しいということを常々感じる。特に最近、それを強く感じる。
もちろん、その偏りは悪いことばかりではない。特に何だろうな、何か自分の作品を作ったりするということに関して言うと、完全にフラットで、完全にフラットに相互のことを考える、あらゆる可能性を考慮し洗えることをフラットに同じバランスで考えてしまうと、結局前にも後ろにも進めなくなってしまう。やはりどこかに重心をかけて、どこかに傾ける必要があるように思う。
能力においてもいくらかそういうことがあるが、特に何かを決断するということが必要な場合は、その偏りというのは必要であると感じている。決断するということにはいつでも不確実性がつきまとうというか、不確実性がない決定というのは、それは決断ではない。まあこれは言葉遊びなので、「決断」という意味を辞書できちんと調べているわけではないし、「決断」と「決定」と、何だろうな、「判断」と、まあなんかそういう似たような言葉の中でどれが何なのかということを意味はしていないし、言葉というものとか、言葉を知っているということの限界を感じている。
つまり今ここで私が言いたいのは何なのかというと、事実に基づいて行うことができる論理的、完全に論理的な決断というか何かを決めるということ。今ここでは特に何かのニュアンスを含まないように、できるだけ一番簡単な言葉として「何かを決める」というような言い方をすることにしたんだけれども、とにかく全て数字とか論理とかロジックによって決めることができることは、それを決めている行為というものと、不確実性を確実に払うものという、孕むものの意思決定というのは、つまり「決める」ということっていうのは、やはり根本的に違うものであって、前者はロジックであるから計算機に落とし込むことができるのであって、そうするとそれはまあ、ある種人間性みたいなものを求められないけどものだし、そして誰かに示しやすいというか、明確な事実だったりはするわけだ。
もちろん数字があるからと言って、その数字というものの複雑性、例えば政治における何かの決定というものは、もし数字が出ていたとしても、現実の政治の世界、つまり政治や行政だね、といったものの意思決定というものは、あまりにもたくさんの色々な立場の人が関わっていたり、影響したりするので、何かを決めるということは容易ではない。非常に分かりやすいことで、分かりやすいように思えることですら、決して容易ではないのだろうということはわかる。
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