書く実験の記録

#693 自信と称される他人の眼差し、ときにChatGPTに褒めてもらうこと

子供の頃とか学生の頃と違って、大人になると誰も褒めてくれなかったり、誰も怒ってくれなかったりする。

特に、まあポジティブなことは言いやすいから、まだそういうことがあったとしても、ネガティブなことを言うっていうのは、言う側も体力を使うし、気力も体力も使うし、正直言って面倒くさい。だから、怒ってあげるよりは、ほっといて離れていくということの方が多いだろう。

しかし、ポジティブな方も、まあなんだろうね。他人から褒められるっていうのは、もちろんありがたいことなんだけれども、それが時に得意になってしまうこともある。内容がどうこうということもあるだろうし、まあなんだろうね、単純に「褒められる」っていうのは、「褒められたい時に」「褒められたい相手から」「褒められたい内容で」褒められたいという、非常に面倒くさい部分っていうものがある。

それらから外れたもの、つまり「褒められたいわけじゃない相手」から、「褒められたいわけじゃない内容」「褒められたいわけじゃない時」に褒められても、嬉しくなかったり、むしろ嫌な気持ちになってしまったりする。

それに、なんだろうな。これは「自信」というものの話にもなると思うんだけれども……違う違う、その「地震」じゃなくて誤変換だね。つまり「地震」の話なんだけど、違うよ、「自分を信じる」方の「自信」ね。

その話なんだけれども、何かの本に書いてあったんだけれども、「根拠がある自信」というものは「自信」ではない。つまり「根拠がある」っていうのは客観的に評価可能であり、それはつまり他人から褒めることができるものである。ということは、それは「自信」ではなくて「他人が信じていること」。自分を信じるではなくて「他人を信じている」のだと。

これはいろいろ反論はあるかもしれないけれども、一つの考え方として自分は、わりとなるほどなと思う部分はあって。つまり逆説的に言うと、「他人から見えないもの」「他人からわからないもの」「客観的に評価が難しいもの」——そういうものを信じることこそが、本当の「自信」なのだというようなことがその本には書いてあった。

評価されるということ自体が悪いということではなくて、しかし、まあ「他人から評価されることを自分でも信じる」ということももちろん悪いことではなくて、しかし、その「他人からも客観的に評価される部分」「褒められる部分」「信じられている部分」というものを信じるというのは、ある種まあ相対的には簡単なもので、かつ、それは「純粋に自分が信じる」というものではない。「他人が信じるもの」でもある。

そうではなくて、「他人から見えない」「客観的に評価できない」、けれども「自分はそれを信じている」というものこそ、自分が信じることでしか成り立たない部分。信じることができない部分であるからこそ、それが「自信」なのである——みたいな話だったのかというと。

そして何の話だったかなっていうと、今までは、そういった「他人から褒められることが難しい部分」とか、「他人にはなかなかまだ言えない部分」みたいなもので褒められるのは当然難しかったわけなんだけれども、だからそれは「自分自身だけで評価しなくてはいけなかった」んだけれども、ありがたいことに今の時代には「ChatGPT」があるわけで。

まあ、ChatGPT に限らず他の言語モデルもそうなんだけれども、仮にここでは ChatGPT を例に挙げて言うけれども、ChatGPT があるから、なんと ChatGPT に褒められることができるわけだ。他の誰にも言う必要がなく、自分自身だけが信じているもの——もちろん、その言語化もできないもの——を褒められることはできないし、ChatGPT には。

だからそれは、「言語化できないものの大切さ」というものはもちろん感じてはいるから、それはより本質的で、より曖昧で、より抽象的で、しかしより大事なものは、その言語化すらできないものだとは思うんだけれども、その手前にある「他人には言えないし、他人には分かってもらえないけれども自分は信じている、そして言語化はできるもの」というものは、それは自分自身だけではなくて、例えば日記などを通して——日記とか何かを書いたりすることを通して——「自分と自分がこう書いたもの」とかを通して対話をすることって今までもできたんだけれども。

まあ、言語モデルの発展によって、その「自分を信じる」「自分だけしかわからない自分の部分」みたいなものを信じるということが、まあもっと平たく言うと「ChatGPT に褒めてもらう」「ChatGPT にだけ褒めてもらう」ということができるなあと思うわけで。

しかし、そのようなことを繰り返していると、それは心理的にも必ずしも良い影響ばかりがあるわけではないと思うけど、とりあえずちょっと嫌なことがあって、今朝ふと思って、「よし、ちょっと自分を褒めてください」って話をしたんだけど。

何して毎日こう使っているわけだから、文章の蓄積があって、情報の蓄積があって、それなりにそれっぽい褒め方をしてくれるから。これはなんだろうな、あまり続けていくと危険なのかもしれないと思いながらも、しかし、困った時に用法・用量適切にする分には良いのではないかと思った次第である。

2025-06-17

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です