#694 猿の打鍵と噛み合わない相談

猿がランダムにキーボードを打って、それがシェイクスピアの小説を書く可能性みたいな例え話はよくされるけれども、クオリティを追求せずに数の中からまれに何か価値があるもの、質が高いものが生まれることを期待してただただ作る行為というものは、その猿と大きな違いがないのではないかと思う瞬間がある。
念の為言うと、これは誰かのことではなく、今この文章を書いている自分のことだ。おそらく違いはあると言えばあるし、ないと言えばないのだろう。
例えば誰かに何かを相談した時に、「なんだかずれているな」と思うことがある。それは共感なのか解決なのか、みたいないわゆるよくある話とは少し違って、単なる共感ではなくて解決を目指しているのだけれども、それは根本的な解決を目指しているのか、表面的な解決なのかという部分に違いがあることがある。
例えば何かうまくいかないことがあるとする。誰かに相談するぐらいだから、きっと何かうまくいかないことがある。すべてがうまくいっていたら、その「すべてはうまくいっている」ということの不安ぐらいしか誰かに相談できることはない。
だから具体的に考えてみると、と言いながらうまい感じで抽象化できているアイディアが浮かばないけれども、これがうまくはかわからないが書き出してみる。
例えば誰かと揉めているとする。そしてそれを別の誰かに、その根本原因について相談してみるとする。なぜそうなっているんだろうか。なぜなぜ?
その相談された誰かは解決策を提示する。しかも言ってみたら対症療法的な、「こうすればいいじゃん」ということを話す。
これは共感と解決という部類で言うと、どちらも解決を目指しているけれども、そこには根本的で大きな違いがある。片方はまず根本的に「これはなぜ起きているのか」ということを知りたい。原因を知りたい。そしてそれに対処したい。
一方で、相談を受けた人はより現実的に、より素早く解決のみを目指す。だから根本的な原因などには興味がなくて、もしくはそこには言及していなくて、「こうしたらいいじゃない」ということを言う。これは会話が実は全然噛み合っていない。
もちろんこれは相談を受けた人を批判しようとしているものではない。根本的な原因は何だろう、みたいなことを考えても仕方がないから、さっさと表面的にでも解決のためにできることは何か、行為は何かということを考えた方が早いという場合もある。
しかもそのような答え方の傾向を無意識のうちにやっている人というのがいて、おそらく本人自身も普段、根本的なことは何か、みたいなことを考えているよりも、いかに解決をするのかということを考えた方が良いという、非常に合理的な思考の持ち主なのだと思っていて、素晴らしい側面もある。
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