書く実験の記録

#700 これは価値ですかそれとも思い込みですか

数字の区切りが心に与える影響は、ただの計算単位以上の意味を持つのだろうか。人はなぜ「キリのいい数字」に特別な感情を抱くのか。これは700個目の文章ということになる。700というと、何か特別な感じがする。正確に言えば、100という区切りに特別さを感じている。

でもそれは10進数の都合に過ぎなくて、人間がたまたま一番理解しやすかったのが10進数だということであり、そこに必然はない。だから100という数字にも特別さはない。

しかし、特別さはないけれども特別だと感じるというのは事実であって、そして「特別だと感じる」ということが特別である。少なくとも自分自身と自分自身の外の環境の接点というところまでは、多分に自分自身の認識であるとか、もっと平たく言えば「自分がそう感じる」ということが大きなウェイトを占めていて——もちろん、自分がお金持ちだと思ったら大金持ちなわけではないし、筋骨隆々だと思ったから筋骨隆々なわけではないんだけれども——少なくともこの100というものを特別楽しめているのは、「自分がそれを特別だと思う」ことであって、お金持ちではないということと違って、「特別だと思うということが特別さを占める」結果、それが特別なものになるということについては、特に否定のしようはないのではないだろうか。

すぐ内省的な話になってしまいそうになるのは悪い癖だ。

こないだ思ったのだが、「誰が書いたのか」ということと「何を書いたのか」ということの議論があるけれども、「何を書いたのか」っていうのは内容の話であって、つまり文章の中身の話であって、中身の価値の話だ。やって、「誰が書いたのか」ということにフォーカスするのは、文章の外の価値の話だ。

逆に言えば、「文章の価値の外の話」であるがゆえに、文章には一切の価値を認めていないと言ってもいい。まあ、否定してるというよりは、その言葉の中には「文章の価値は少なくとも存在しない」。あるかないかは別として、認識をしていない、言及していない、触れていない、扱っていないということだ。

そしてややこしいのは、誰かが自分の話をする時、それはその物事に誰かが興味を持ったとして、それは「その人に価値がある」のか、「その人が書いた文章に価値がある」のかというのは混ざり合って分かりづらくなる。

しかし、「誰が書いたのか」に価値があると考えるならば、内容には意味はなくなるので、「誰が書いたか」ということに対しては興味を持たれる人ばかりで、文章には興味を持たれないということになるのかもしれない。

「誰が書いたか」ということにのみ過剰に価値を置く文化というものは、「書かれたものの価値」、そして「書くという行為それ自体」、ひいては「誰が書いたかということの価値自体」も毀損していくものではないか? と思ったのだが、これはまだうまく説明ができていないということがわかった。

2025-06-24

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