#709 完璧ではない練習

駄作を世に出すということの練習である、そのようなこともテーマの一つであるから仕方がないことではあるんだけれども、時に後になって思い出して、その駄作だとしても「さすがにこのクオリティはないな」とか「さすがにこの内容はちょっと良くないよな」とか、「それにしても自分に対してネガティブな影響しかないのではないか」と思ってしまうようなものが出来上がってしまうことはある。
そのような時に取れる選択肢はおそらくいくつかあって、そのまま置いておくこともそうだし、もしくはそれを直すということもあるし、もしくはそれを消してしまうということもあるだろう。
今のところは、それが誰かを傷つけてしまったり、そういったものでない限り、つまりあくまで自分の、自分の駄作である、自分だけが傷つくものであるという場合は、まあいいかなと思っていて、そうは言ってもこの「まあいいかな」というのは別に自分が傷つくのがいいわけではないんだけど、できればそうならない方がいいんだけれども。
しかし、まあ、それは単なる駄作であるというだけであれば、人に迷惑をかけていないと思うので、いないと思うというか、人に迷惑をかけているわけではなくて、単に駄作であるというものを単なる駄作であると定義しているという……なぜか繰り返しを言ってしまったが、そうではなくて、とにかく人に迷惑をかけないけれども、自分はちょっと「これはさすがに……なんかあんまりいいもの書けなかったな」と思ってしまうことがあるとして、それはまあ、ただの駄作だと定義している。
最近気づいたことだけれども、これはある種の練習だと思っていて、それは完璧主義への抵抗である。
完璧主義がまさに狂気となって、そしてそれが素晴らしい成果につながっているという人もいるけれども、それはごくまれであるし、ましてやそれは単に「素晴らしい駄作」なのかもしれない。
つまり凡人から見ると、私のような凡人から見ると、その人のその作品は完璧なものに見えるし、きっと本人も完璧なものだと思っているのだと思うかもしれないけれども、しかしそれは本人にとっては、やはり駄作でしかないというか、決して完璧なものなのではなくて、やはりモヤモヤした気持ちを抱えながら外に出しているのかもしれない。
もちろん、完璧な作品とダメな作品、駄作の間には無限のグラデーションがあって、言葉としてももちろん「良作」とか「佳作」であるとか、いろいろな褒め言葉はあるし、単にすべてのアウトプットが「完璧なもの」と「ダメなもの」の2つに分かれるわけではない。
むしろそれぞれが両端にあって、それは存在しないものかもしれないし、少なくとも完璧というものは完璧には存在しないし、そういう意味では「完璧にダメな作品」というものも存在しないわけだから、あらかじめすべてがグラデーションのどこかに置いてあるだけに過ぎないと言えばそうなんだけれども。
まあ、それにしても、仮にそれを「完璧に近い10%」と「完璧にダメに近い10%」というものを、仮に「完璧な作品」と「完璧にダメな作品」、つまり駄作であるというふうに定義したとしても、ほとんどの作品はそこには入らないだろうし、その間にある80%のところに、まあ当たり前だが、ほとんどの作品が入るわけだ。
コメントを残す