#718 一生正気でいるという狂気

私は普段お酒を飲まないというか、基本的に飲めないので飲まないことにしている。それは酔わないということだ、シラフでいるということ。そしてずっと責任を持っているということ。お酒を飲まないということは、一生お酒を飲まないということは、つまりそれは一生シラフでいるということになる。
シラフでいるというのは、正気でいるということだ。一生正気でいるということを選ぶということである。では、正気でいるとはどういうことなのだろうか。それは社会において、それが正常であるということだ。正気であるということと正常であるということには、どちらも「正しい」という文字が入っていて、それはまさに正しいということで、その正しさというものは自分の中ではなくて外的なもの、社会規範のようなものによって縛られていることが正気でいるということだろう。
なぜならば、もし自分自身だけが「これは正気でいる」と思っていても、やはり社会において、社会からそれを「正気ではない」「正しくない」とみなされることであれば、それは残念ながらやはり正気ではないということになってしまうからだろう。
つまり、正気とは社会において理性的であるということ、倫理的であるということ、社会規範に従っているということ、モラルを保っているということ、常識に則っているということ。それらを示していて、それらを内面化しているということが、まさに正気でいるということだと思う。
正気でいるということは、何かに従うということである。それが規則、大きく言えば規則とか何かに従い続けるということだろう。それが正気であるということだろうし、シラフでいるということだろう。
では、お酒を飲むということはどういうことなのか。これはもちろん人によるけれども、一般論としてお酒を飲むと酔っ払うということを仮定して考えてみよう。全く酔っ払わない人ももちろんいるだろうし、まったく飲めない人もいるだろうけれども、一般論としてお酒を飲むと酔っ払うわけだ。
ここについては、この前提でいこうと思う。そして、お酒を飲むということはどういうことかというと、ちょっと判断能力が落ちたりするということは誰もが認めるところだ。つまり、普段の自分の脳みそよりややいろいろな能力が落ちるわけだね。判断能力やさまざまな思考能力が落ちたり、つまりちょっとバカになるわけだ。正気でいるということから休憩しているわけだ。お酒を飲む人は、自らそのちょっとバカになる時間を作り出しているということになるだろう。
そこには、ちょっとバカになるということの口実というか言い訳というか、そういう社会的な逸脱がある。ちょっとバカになる結果、先ほど述べたような倫理であるとか理性であるとか社会規範であるとかモラルであるとか常識であるとか、そういったものから若干逸脱することが社会的に許されるということである。
つまり、規則から逃れるということ、社会規範から逃れるということ、一時的にでも自分が自分ではなくなるということ、それを許される時間というものがお酒を飲む時間であって、それはつまりお酒を飲むということだ。
そして、お酒を飲んでそこで普段の自分ではなくなる時間を作る。そして、それが許されているということは、ある種の自由をそこで手に入れるということなんだと思う。
では、お酒を飲めない人間、つまりお酒を飲まない人間というのはどういうことなのかということを逆に考えてみると……。
お酒を飲まない、飲めないというのは正気でいるということだ。酔っ払う時間がないということ、一生酔っ払う時間がないということだし、それは一生素面でいるということだし、それは一生正気でいるということだ。一生正気でいるということ、一生正気でいなくなる時間がないということ、正気でなくなる手段がないということ。他にもいくつかあるにはあるんだけれども、大きな社会的に許された、一番許された正気でなくなる手段としてのお酒を飲むというその装置、手段が使えないということ。
常に倫理的である必要があって、常に社会規範に従う必要があって、常に説明可能であり、一生自由ではないということになる。一生自由ではないということを選ぶということ。一生シラフでいるということは、ある種の一生正気でいるということ自体が、ある種の狂気であるというふうにも思う。
そもそも自由とはなんだろうか。自由意志とは理性的な判断のことを言うのか、それともそれは無意識の発露に過ぎないのかというのは様々な議論もあって、特に近年の生理学的な、大脳生理学的な、神経科学的な理論の発達や研究の進展によって、どんどん人間の自由意志の余地というものは少なくなってきている。
つまり、昔はさまざまなことが良くも悪くも自由意志として扱われていたものが、現在ではその自由意志の範囲というものは極めて少ないということがわかりつつある。
人間はまったく自由ではないのだ。どんどん時代が経つにつれて、人間は自由ではないということがわかりつつある。それは、自らが選んで何かをするということではなくて、半ば必然として自由意志がない状態によってそうなっているということだ。
だから特に近年のメリトクラシーについての議論でよく出てくるものだけれども、例えば今得ている社会的な果実や報酬のようなものは、それが自分の意思で選んだものなのか、それとも結果的にそうなっただけで自分の意思や努力ではないのか。そもそもその努力というものもまた、自分の意思で得たものではないのかどうか、みたいな話はよくあるわけで、一旦その話は置いておくけれども……。
そんな現在において、お酒を飲むというものは、正気でいなくなる時間、規範から自らを逸脱させることができる。それを合理的に、社会的に許された形で自らを規範から逸脱させることができる装置としての必然性があるんだと思う。
であるならば、お酒を飲まない人間にも同様の装置というものは必要なはずで、それはなんだろうかというと、たとえばこの文章を書いていることもある種の狂気なのかもしれない。素面で書くには恥ずかしいようなことも書いているし、そういう意味で言うと、これもある種の狂気なのかもしれない。
演じることであるとか、孤独でいることであるとか、沈黙でいることであるとか、もしくは大声を出すことであったり、カラオケに行くでもいい。なんでもいいけれど、とにかく自らの判断力を低下させるでもなんでもいいんだけれども、正気でなくなる瞬間というものは、やっぱり作らなくてはいけないのではないだろうかと思う。
最後に、社会の中で正気を保ちながら生きるということは、社会の規範に基づいて逸脱せずに生きていくことを意味する。それは社会で問題なく生きていくために必要なことではあるけれども、みんながお酒を飲むのは、その規範からの逸脱という自由を手に入れるため。ほんのわずかではあるけれども、若干の自由を得るためなのだ。
それは必要だから飲むのだと思う。ただし、過剰になるとアルコール依存症などの問題が生じるため、それは良くない。だからといって、お酒を飲む人を否定するわけではない。「那」は意図的に自分の中で規範からの逸脱を設計しているということだと思う。その責任は正気の時に問われるべきだと考える。少なくとも、お酒を飲まない私からすると、そのような責任は取るべきだと思っている。
だから、それがその人にとって必要なものだとしても、やはり自由。その自由を手に入れるということ自体は否定しないけれども、そこにはやはり責任が伴う。逸脱するというのは、自由への入り口であって、それは自らの規範からの疲弊みたいなものを回復するための方法、手法であるとは思う。
しかし、それをどのように作るのか、正気からどのように離れるのか、一生正気であるという狂気からどのように逃れるのかということは、考えなくてはならないのだと思っている。
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