書く実験の記録

#719 自分でなくてもいいということ

今日、2025年8月8日金曜日の日本時間で午前2時ごろ、OpenAIのGPT-5という新しいモデルが発表された。それがどのくらいの性能なのかということについては、ベンチマークなどは踏まえつつも実際に使ってみないとわからないところもある。ただ、知性の一部がまた一つ、機械に置き換えられたのだなという瞬間を感じる。

これはもちろん、まだ人間を遥かに凌駕するような超知能ではないのだろうけれど、長い道のりの中で、少しだけ外方向に進んだということでもある。そして、人間の知能の価値がまた一つ下がった瞬間だったとも言えるのかもしれない。

例えば、足の速さ。人間の中にもいろいろな速さがあるけれど、私と世界一速い人では当然まったく違う。その差は人間の中では大きなものだけれど、自動車や新幹線、飛行機と比べると、人間同士の違いは誤差になってしまう。

それと同じように、知能や創造性についても、いずれ人間の知性の差は誤差レベルになって、大きな意味を持たなくなる日が来るかもしれない。その中の小さな一歩なんだろうなと、ある種感傷的な気持ちになる。

そこで、人間らしさとは何なのかという問いに向き合うことになる。かつて知性や情緒の読解力は人間らしさの象徴と考えられていたが、それが計算機や機械で代替できるようになったとき、それはもう人間らしさとは言えなくなるのかもしれない。

そういうものは、動物の中で一番足が速いのがチーターであるように、たとえそれより速い機械が存在しても、チーターが一番速いという印象は強く残っている。それと同じで、カテゴリーの中での存在価値は残るかもしれないが、価値そのものは置き換わっていくのかもしれない。

そして、もし知性の価値が誤差レベルになり、意味が失われ、代替されてしまったと仮定したとき、それでも残る人間らしさとは何なのか。人は、自分のアイデンティティが揺らぐような感覚を覚える。自分の担っている役割や仕事がAIにも可能だと知ると、危機感を抱く。それはAIだけではなく、他人に置き換えられると感じたときにも同じように感じるものだ。

結局それは、自分ではない何かが自分と同じことができてしまうという事実からくるものなのだろう。

自分でなくても、それができるということ。そのうえで、それでも「自分がやりたい」と言えるかどうか。たとえ役割がなくても、意義がなくても、それでもやりたいからやるというものを持てるかどうか。それを見つける必要があるのかもしれない。

2025-08-08

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