#721 自分というものの余地

科学技術が進むにつれて、様々なことが分かってきて、例えば人間の自由意志というものが存在する余地というものが、どんどん削られてきたりとか、それに尽きるのかもしれないけど、もっと曖昧に言うと、自分というものの存在する余地が減ってきている気がする。そういうふうに感じることがある。
昔は自分というものがもっと曖昧で神秘的なものだったけれども、様々なことが解明されるにつれて、それによってその曖昧なものが存在し得る余地みたいなものは、どんどん狭くなっているということだ。例えば、そうだな、それは自分が選んだと思っているものを、自分が本当に選んだのかどうかということもそうだし、それによって今ある自分の環境や境遇や状態というものも、自分で選んだものだったのかどうかということもあるし、もっと普段の身体の存在というものに関しても、別に難しいことではなくて、家にいるときにふと「自分はこうしたい」と思っているけれども、その「自分はこうしたい」って何なんだろうと思うようなことがあったり。
例えば「お腹が空いたな」とかっていうのは、ただの自由意志というよりは生理的・科学的な反応だし、そんなことは分かっているわけなんだけれども、しかし時代が進むにつれて、どんどんある種の自分という幻想は削られていっているのかな、みたいな気持ちがある。一方で、昔はもちろん地域によるんだけれども、共同体の意識みたいなものの方が先に立っていて、もしくは共同体の中の役割みたいなものが先に立っていて、自分というものについて強く考えたり意識したりすることっていうのは、今に比べると少なかっただろうし、自分という概念…。
自分というものを指し示す概念みたいなものは、もちろん「私」とか「我」というような形で昔からあったわけだけれども、自分という概念自体は近代になってから輸入されたものであるというふうに聞いたことがあって、そういう言葉って他にもいろいろあるわけだけれども、例えば「自由」という言葉も昔は確か存在しなくて、輸入されたようなものであるって、どこかで聞いたような気がするし。
そういった概念、今話したように「自由」という概念が後から輸入されたものであるということと、自分というものについても、結構つながっているのかもしれないけど。
あと、思うことは、よくある議論としての哲学的ゾンビの思考実験とかは、まさにそれに関連したテーマを考えるのにぴったりだなと思っていて、もし自分と全く同じ物理的な状態を再現できる存在がいたとして、それは自分なんだろうか、みたいなことの思考実験なわけだけど。
だからこそ、それを自分なのだということもできるし、やはりそれは自分ではないわけだから、物理的な状態以外の何かが存在するのだ、みたいなことを考える人もいるだろうし。私はどちらかといえば物理主義的なところがあるから、結局それは、人間という「自分」という人間は、ある瞬間の物理的な状態に過ぎないんじゃないかなって思ってるから…。
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