#723 暇を失った時代の趣味論

「趣味は何ですか」という風な会話になることはよくある。「あなたの趣味は何ですか」「私の趣味は何ですか」。しかし、自分はこの答え、この質問にうまく応えられない。自分には趣味はないなといつも思う。
趣味とは何なのかと言うと、「暇な時間にやること」のような定義が出てくる。しかし、暇な時間とはそもそもなんだろうか。趣味をしているとき、手が何かをしているときは、疑問な時間、手間は当然ない。何かをしているからだ。何かをやりたいという気持ちを持っている時点で、「暇だな」と思うよりは、何かをやりたいという気持ちが先立つわけだから、そこにはもはや「暇な時間」は存在しない。
そうなると、「今の時間に何かを行うことが趣味である」ということも、なかなか難しいような気がする。しかし例えば、仮にそれが仕事ではない時間――可処分時間ということに関して言うと、仕事というものが会社員などの場合はどこまでが仕事なのかということを定義することが容易であるとしたら、それは「仕事ではない時間」、つまり会社の仕事をしていない時間のものは全て趣味で行っている、という定義ができるかもしれない。
もちろん、可処分時間と言っても仕事をしていない時間全てをそこに当てられるわけではなくて、様々な家庭のことであるとか、自分自身のことであるとか、必要でやらなくてはいけないこと、重要なことをやっている時間というもの、それらを除いた時間にできる、それが「暇」ということなんだとは思う。
私は実は趣味がない。趣味とは何か、よくわからない。そして、ここに大きな問題があると感じているというのが、今日のテーマということになるかもしれない。
すごく暇である、何もする時間、何もしない時間があるということでは別にない。しかと言って、ずっと仕事をしているのかというと、もちろんそんなこともない。かといって、よくわからないのだ。「趣味」というものは何なのか、よくわからない。
毎日やっていることとか、進んでやっていることというのは、たくさんなくはない。いくつかはある。しかし、それは趣味なのかと言うと、よくわからない。
何の意味も価値も求めなくてよくなった時、それでもやることが趣味なのか。誰かに褒められたり、認められたり、課長を与えられたりしなくても、それでも自分がやることが趣味なのか。もっと言えば、何かを趣味として守る必要があるのではないか。
例えば、意味や価値のようなものを求め始めると、そこには効率の概念が入り込むし、「効率よく趣味を行う」というのは、まあ、何か本末転倒な響きがする。
もちろん、なんだろうな、何かをより楽しくするために、非効率の部分を切り捨てて、もっと楽しく趣味を行う、というのはあると思うし、そこについては決して、「趣味と生産性というものを同居させてはいけない」というわけではない。
生産的な趣味なんてクソくらえだ、みたいなことかもしれない。
例えば、今こうやってここに文章を書いていることというのも、まあ別に嫌いでやってるわけでもないし、そして仕事になっているわけでもないので、しかし、これが趣味ですと言うと、まあなんかちょっと違うような気持ちがある。
では、これは何なんだってこともあるし、「趣味か?」と問われると、なんか趣味という感じはしないわけだ。これは何なんだろうか。
文章がうまくなるという練習だと思っているところはあるし、これは何かのアイディアとかが自分の中で生まれるために使う時間だと思っているし、考えがまとまる時間だとも思っている。だから、意味はすごくあるんだけども、しかし、そこは、だからさっき言ったように、すでにここに「意味」が入り込んでいて、であればこそ、なんだろうな、こう、より効率よくその目的を達成できることが求められるというか、そういう方法があるんだったらそっちに乗り換えてしまうかもしれない。
なので、今のところこれをやってるけれども、じゃあ、これは趣味なのか? 意味も価値も全くないとしてもやるのか? なんとなくそうではない気がしているので、そこはやっぱり「趣味だ」という風に自分で思えない部分なのかもしれない。
だから、どんなものも、まあもちろんバリバリと仕事になれば、すごく儲かればいいという部分もあるし、「好きなことをして、しかもそれがお金になる」っていうのは、これは永遠のテーマというか、それを良しとするかしないのかということも含めて永遠のテーマなんだけれども。
しかし、やっぱり効率というものが入り込まないように守る、ということであるとか、それを趣味として、趣味を趣味としておいておくということを、意思を持って行うということ、そこには起きない意味とか直接的ではない意味、だがそこに大きな意味があるのかもしれない。逆説的だが、特に大きな意味があるのかもしれない。
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