書く実験の記録

#734 継続と詰め込み

たとえ1分でもいいから何かをやってみる。例えば、何かを継続する時に「それを毎日例えば30分やらなくちゃいけない」というふうに決めてしまうと、もちろんそれはとてもできたら素晴らしいことだし、できる人のことは大変素晴らしいんだけれども、まあ結構大変すぎるので継続自体が損なわれてしまう。

つまり、本来の意味で言うと、別にそれが25分であったり15分であったり、なんなら10分であったりしても、やらないよりやった方が良くて、それにもかかわらず「30分」と決めすぎてしまって、もし30分以下であれば価値がないというふうになってしまい、それ自体が継続をするモチベーションの邪魔になってしまった場合は、それは30分という区切り、時間の制限、時間の制約みたいなものを外しても良いのではないかということにおいては、それは全く反対するものではない。

「1分でもいいからそれをやる」というのは良いことだと言われれば、まあそうかなとは思う。しかし、なんだろうな、たくさんのことを詰め込んでしまうという問題はある。1日にね。

それはもちろん、その、例えばだが、別に詰め込まない毎日の中で、1日に例えば1個なり、極端に言えば1個だけ継続的に取り組んでいることがあったとして、そしてまあ、1分でも、極端には1分だけそれをするというだけでも、その1日はもう自分にとっては素晴らしいものであるということができて、かつ、もちろん頑張れる時は、それを8時間なり16時間なり、わからないけれどもすごく頑張ることができる。そういうことを取り組むことができている、そういうものを持ってているということは、もしできたらそれは素晴らしいことだなと思っている。

だから、「1分でもできればいい」ということと、「取り組むことを少なくする」「フォーカスする」ということは、別に矛盾しないはず。ついつい頭の中では、少なくとも私はそれを=だと考えてしまっていて、つまり何を=だと考えているのかというと、それは、例えば「1分でも何かをやるのだ」ということが継続にとって有効であるし、もちろんやらないよりはずっといいということと、「そういう考えによっていろんなことをもっともっと詰め込むことができる」「ルーティンみたいなものを10個でも20個でも30個でも持つことができる」みたいなことを、ついつい=で考えてしまう。

だから、それはそうだな、ついつい=で考えてしまうがゆえに、両方に対して違和感を感じてしまうわけなんだけれども、しかし、考えてみれば「電車投稿者」というものが切り離して考えることができるのであれば、「電車には賛成するけれども保護者には反対する」ということができるかもしれない。

というか、別に反対をしてるわけではなくて、むしろ最近まで私はそのことを信じていたし、それをすることで何かより良い――どうにも実はそうではないかもしれないということを思い始めているという、ただそれだけであって、その考えは、まあなんだろうな、すぐに変わるかもしれないし、定着するのかもしれないし、単純に自分のやり方がダメというかうまくないだけなのかもしれないし、いろいろな、かなり複雑な前提条件が組み合わさっているので、そのことだけを単純に否定したいということはなじまないのだけれども――。

もしかしたら、たまたま近年というか、ここ、そうだな、どのくらいかわからないけれども、思っていることに対して、ちょうどこの間飲みに行った人が、まあ友人が、「そのような『1分でもできる』『続ければいい』ということ」と、「いろんなことを詰め込んで色々できるということ」について、その人はそういうことを考えていて、それを実践しているという人がいて、それに対して言うと、自分自身がちょうど、そうだな、「それではどうも自分はうまくいかない」と思い始めて、それをやめていたところだったので、非常にタイムリーにその自分とは違う考えの人――過去の自分とは同じ考えなんだけれども――そういう人に出会うことができて、それはそれでとても面白かった。

2025-09-02

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