書く実験の記録

#735 実験できない自分を実験する

ある一定のルールにも気づいて何かを続けるということであるとか、その一定のルールを守りながらその中でいろんなことを試すということが実験であるということも言えるし、しかしそのルール自体を一回忘れて捨て去ってしまって、何か新しいルールというか、もしくはルールがない中で何かを試すということも、また一つの実験だろうと思う。

では、この場所をどう使うべきなのかというのは、これはその場所に確認が当たってはややメタな問いかけにはなるけれども、少しその部分は今わからなくなっている。

いろいろなことを限らなく詰め込んでいって、それぞれを何とかするというのは、何とかする、もしくは何とかなっているという状態。それを目指すゲームでしかなくて、「何とかなっている」というのは、それが100%、120%のものであるということとは少し違うと思う。

あとは結局それは主観でしかなくて、もちろん客観的な評価があるものもあるし、ないものもあるんだけれども、自分の中の満足というか、納得か、という意味で言えば、やはり同じ失敗をしたとしても、時間をかけて失敗をした時と、時間をかけられなくて失敗をした時だと、前者の方がよりダメージは大きいし、それは後者の方が「まず時間をかけられなかったのだ」という自分に対しての言い訳ができてしまうので、そもそもそれ自体が良くないんだけれども、いずれにしても言い訳ができてしまう分、自分に対してのダメージは軽い。

おかしい。ダメージは軽いけれども、より良くないのはやはり後者。そのダメージが少ないということも含めて、よりあまり良くない状態であるというのは後者である。

何かのルールに基づいて何かを試す、そしてそれを続けるということと、そのルールを変えるということというのは、なかなか両立は難しい。

それは、一人の人間というものにおいてできることが限られていて、自分とは切り離した実験体であれば、もちろんそれは二つの実験対象の群を作ればいいんだけれども、自分自身が何かを行うということであるとか、そういうものに関して言うと、なかなかそうはいかない。

実験群というのは、非常にクリアに条件を制御することが大事であって、実際の生活における自分自身や人間というものは非常に複雑な環境にさらされていて、複雑な条件において何かが起きるので、なかなか様々な条件というものを相殺していくことが難しいというのは、社会学とか社会心理学とか、そういったもので人間を分析する際の難しさではあるけれども、そんな学術的な話でないにしても、自分自身がどっちの行動が良かったのか、どっちのやり方が良かったのかと思うに当たっても、結局のところかなりシンプルに統制できるもの以外は、ある意味でわからないと言えばわからない。

2025-09-03

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